心を満たす2つのこと~湯船の教訓~

みなさん、こんにちは。

心理カウンセリング空の関口剛史です。

いまの日本社会では、「いじめ」や「あおり運転」など、自分勝手な行動をする人が増えているように感じます。

どうして、そのような行動をする人が増えてしまったのでしょうか・・・

それは、「心が満たされていない」人が増えているから。

今日は、二宮金次郎の「湯船の教訓」をご紹介しながら、「心を満たす2つのこと」について書いていきます。

目次

湯船の教訓

二宮金次郎の「二宮翁夜話集」から「湯船の教訓」をご紹介します。

世の中では、そなたたちのような富者が、みんな足りることを知らずに、飽きゆくまで利をむさぼり、不足を唱えている。

それはちょうど、おとながこの湯船の中に突っ立って、かがみもせずに、湯を肩にかけながら、湯船が浅すぎるぞ、膝までも来ないぞと、どなるようなものだ。

もしも望みにまかせて湯をふやせば、小さい子どもなどは湯には入れなくなるだろう。だからこれは、湯ぶねが浅いのではなくて、自分がかがまないことが間違いなのだ。この間違いがわかってかがみさえすれば、湯はたちまち肩まで来て、自然と十分になるだろう。

他に求める必要がどこにあろうか。

世間の富者が不足を唱えるのは、これと何ら変わらない。およそ、分度を守らなければ、余財がおのずからでてきて、十二分に人を救えるはずだ。

この湯船が、おとなはかがんで肩につき、子どもは立って肩につくのを中庸とするように、百石の物は五十石にかがんで五十石の余財を譲り、千石のもの五百石にかがんで五百石の余財を譲る。これを中庸というべきだ。

もし町村のうちで一人この道をふむ者があれば、人々はみんな分を超えた過ちを悟るだろう。人々がみんなこの過ちを悟って、分度を守ってよく譲れば、その町村は富み栄えて平和になること疑いない。

古語(大学)に「一家仁なれば一国仁に興る」といっているのは、このことだ。よく心得なければならない。

仁というものは人道の極致であるが、儒者の説明はやたらにむずかしいばかりで、役に立たない。

身近なたとえをひけば、この湯ぶねの湯のようなものだ。

これを手で自分の方へかき寄せれば、湯はこっちの方へ来るようだけれども、みんな向こう方へ流れ帰ってしまう。これを向こうの方へ押してみれば、湯は向こうの方へ行くようだけれども、やはりこっちの方へ流れて帰る。少し押せば少し帰り、強く押せば強く帰る。これが天理なのだ。

仁といったり義といったりするのは、向こうへ押すときの名前であって、手前にかき寄せれば不仁になり不義になるのだから、気をつけなければならない。

古語(論語)に「己に克って礼に復れば、天下仁に返す。仁をなす己による。人によらんや」とあるが、己というのは手が自分の方へ向くときの名前だ。礼というのはこの手を相手の方へ向けるときの名前だ。手を自分の方へ向けておいては、仁と説いても義の講釈をしても、何の役にも立たぬ。よく心得なければいけない。

いったい、人のからだの組み立てを見るがよい。人間の手は、自分の方へ向いていて、自分のために便利にできているが、また向こうの方へ向いて、向こうへ押せるようにもできている。これが人道の元なのだ。鳥獣の手はこれと違って、ただ自分の方へ向いて、自分に便利なようにしかできていない。

だからして、人と生まれたからには、他人のために押す道がある。それをわが身の方に手を向けて、自分のために取ることばかり一生懸命で、先の方に手を向けて他人のために押すことを忘れていたのでは、人であって人ではない。つまり鳥獣と同じことだ。

なんと恥ずかしいことではないか。恥ずかしいばかりでなく、天理にたがうものに益なし、これが天理なのだと教えている。よくよくかみしめて、味わうがよい。
引用 二宮翁夜話(上) 発行:一円融合会刊 原著:福住正兄

心が満たされない理由

「湯船の教訓」は、二宮金次郎の「たらいの水」で有名になった語録で、「足りるを知ること」と「他者を満たすこと」の2つの視点で語っています。

「足りるを知ること」と「他者を満たすこと」は相反するように聞こえますが、金次郎はこれが天理だと説いています。

当然ですが、人は自分の心が満ち足りていないと、他者の心を満たすことはできません。逆に、自分の心が満ち足りていないと、他者から満たしてもらおうとします。

いま、「いじめ」や「パワハラ」「あおり運転」などが増えているのは、自分の満たされない心を他者への「怒り」や「攻撃」で満たそうとする人が増えているから。

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でも、他者への「怒り」や「攻撃」は一時的に満たされるだけで、何の解決にもなっていない。

日本では、毎日食べるものに困らず、今日1日を安全に暮らせる社会があるのに、どうして心が満たされないのだろうか。それは、社会という湯船に立って「湯船が浅すぎるぞ、膝までも来てないぞ」と、心のなかで「怒り」を感じているから。

自分でしゃがむこともせず、何が足りるかも知らずに、心の不平や不満の解消を過去・他者・社会に求めようとするから、いつまでたっても心が満たされない。

自分の心が満たされていないから、更に他者や社会に満たしてもらおうとする。

しかし、その他者に求める行為が、いつまでたっても心が満たされない本当の原因。

結局、自分の心を満たせるのは自分しかいません。

では、どうすれば人は自分で自分の心を満たせるようになるのでしょうか?

それが、「足りるを知ること」と「他者を満たす」ことなのです。

心を満たす2つのこと

心を満たすには「足りるを知ること」と「他者を満たすこと」の順序がポイントになります。

人は自分の心が満ち足りていないと、他者の心を満たすことはできません。

自分の心が満ちていない状態で他者を満たそうとすると、必ず何かしらの見返りを求め、自分の心を満たそうとします。

よって、心を満たすためには「足りるを知ること」と「他者を満たすこと」の順序が大事になります。

足りるを知る

自分で自分の心を満たすには、まず「足りるを知ること」です。

例えば、「毎日、豪華な食事を食べないと幸せになれない価値観」のAさんと、「毎日、おいしい食事が食べられると幸せになれる価値観」のBさんがいたとします。

では、AさんとBさん、どちらの心が満たされやすいでしょうか?

「日々のあたりまえのことを大事にできる価値観」のBさんの方が心が満たされやすいです。

もちろん、Aさんの高い価値基準で「その価値基準を満たすために自分を高めていく」のであれば、Aさんの価値基準でもいいです。

ポイントは、自分の心が満たされるために、どういう価値基準を持つ必要があるのか?をしっかりと考え理解しておくことです。それが「足りるを知る」ことです。

個人的には、何かしないと得られない満足感よりも、いまあたりまえの中から見つける満足感の方が、心は満たされやすいと考えています。

他者を満たす

自分の「足りる」を知れると、心が満たされはじめ、心にゆとりがうまれます。

心にゆとりがうまれると、少しだけ人に優しくなれます。

次に、その心のゆとりと優しさの半分でいいので、他者を満たそうとしてください。

ポイントは、大きなことではなく小さな些細なことで、そして「自分の為」に他者を満たそうとする意識をもつことです。

例えば、スーパーのレジの会計で、店員さんに笑顔で「ありがとう」と言ってみる。そうすることで、店員さんの心は少しだけほっこりと満たされます。

また、店員さんに「ありがとう」と言っても、無愛想に無視されることもあります。

そのとき、必ず「ありがとうと言ってあげたのに・・・」という気持ちがでてきますが、あくまで「自分の為に他者を満たす」ことを忘れないでください。

他者を満たすときに大事なことは、他者からの評価・感謝ではなく、自らの意志と行動です。

自らの意志と行動をもって、他者を満たそうと意識することで、自分の心は満たされていきます。

そして、1人ひとりの心が満たされることが増えていくと、1人ひとりが人に優しくなり、結果として、地域が富み栄えて平和になれるのだと思います。

まとめ

今日お風呂に入ったとき、まずお湯を自分に寄せてみてください。その湯は自分を中心として散っていきます。次に、お湯を前方に押しやってみてください。結果として湯は自分を中心に返ってきます。

「足りることを知り」「他者を満たそうとする」こと、今の日本社会で忘れていることのように感じます。

「いじめ」や「あおり運転」が絶えないのは、不自由ない生活をしていても、どこか心が満たされてい人が多いからではないでしょうか。

しかし、自分の心を満たせるのは自分しかいません。

他者から満たしてもらおうとするのではなく、まずは自分の「足りるを知り」、それから自分の為に「他者を満たす」意識をもつことからはじめてみてはいかがでしょうか。

ひとりでも些細なことでもいいので、はじめる人が増えていけば、少しずつ変わっていくのではと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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