みなさん、こんにちは、心理カウンセリング空の関口剛史です。
コロナ禍となり、先が見えない難しい状況が続いています。いつの世も難しい時代になればなるほど、安易なスピリチュアルや方法論が蔓延るが世の常です。
しかし、安易なものは安易な結果しかもたらさず、難しい状況をさらに難しくしてしまうものです。
先の見えない難しい状況では、安易なスピリチュアルや方法論を行うのではなく、私たちひとり1人が心持ちを大切にすることです。
今日は「行為よりも心持ちを大切にしよう」について書いていきます。
行為を目的にしても、それが叶わない理由
先日、カウンセリングで二宮金次郎「たらいの水」の話し合いをしました。
二宮金次郎の「たらいの水」とは「たらいの水は自分に寄せると逃げてしまうが、外側に向けて押しやるとそれは自分に返ってくる、だから人のために何かすることが大事」という心のたとえ話。
その方は「たらい水」の話を聞いたとき「いい話」だけれど、心のどこかで違和感を抱いたとのこと。
他にも、トイレを掃除するとお金持ちになれる、「ありがとう」と「感謝」をすることで幸せになれる、「神社ミッション」と称して、神社に高額のお賽銭を払うことでそれ以上のお金が返ってくる、○○○を学べば幸せ・成功者になれるなど、「○○のために△△をする」という考え方が溢れている
先の見えない時代では、そういう安易な話しが増えてくると思います。
でもね、お金持ちになるためにトイレを磨いても、幸せになるために「ありがとう」と連呼をしても、お金を得るためにお賽銭を入れても、幸せになるために何かを学んでも、それらはすべて叶わない。
なぜならば、「○○のために△△をする」という行為の動機は、すべて心の欠乏欲求からうまれているものであり、欠乏欲求からうまれる行為は、いつまでたっても満たされることがないものだから。
「たらいの水」の本質
二宮金次郎の「たらいの水」とは「たらいの水は自分に寄せると逃げてしまうが、外側に向けると、それが結果として自分に返ってくる」という「自分に利を求めるのではなく周りに利を与えていきましょう」という例え話。
しかし、二宮金次郎が伝えたかったことは、そんな簡単な話ではありません。
「たらいの水」の元になったのは、二宮翁夜話集の「湯船の教訓」というお話。
世の中では、そなたたちのような富者が、みんな足りることを知らずに、飽きゆくまで利をむさぼり、不足を唱えている。それはちょうど、おとながこの湯船の中に突っ立って、かがみもせずに、湯を肩にかけながら、湯船が浅すぎるぞ、膝までも来ないぞと、どなるようなものだ。
もしも望みにまかせて湯をふやせば、小さい子どもなどは湯に入れなくなるだろう。だからこれは、湯ぶねが浅いのではなくて、自分がかがまないことが間違いなのだ。この間違いがわかってかがみさえすれば、湯はたちまち肩まで来て、自然と十分になるだろう。
他に求める必要がどこにあろうか。世間の富者が不足を唱えるのは、これと何ら変わらない。およそ、分限を守らなければ、千万石あってもなお不足だ。ひとたび分に過ぎた過ちを悟って分度を守れば、余財がおのずからでてきて、十二分に人を救えるはずだ。
この湯船が、おとなはかがんで肩につき、子どもは立って肩につくのを中庸とするように、百石の者は五十石にかがんで五十石の余財を譲り、千石の者は五百石にかがんで五百石の余財を譲る。これを中庸というべきだ。
もし町村のうちで一人この道をふむ者があれば、人々はみんな分を超えた過ちを悟るだろう。人々がみんなこの過ちを悟って、分度を守ってよく譲れば、その町村は富み栄えて平和になること疑いない。古語(大学)に「一家仁なれば一国仁に興る」といっているのは、このことだ。よく心得なければならない。
仁というものは人道の極致であるが、儒者の説明はやたらにむずかしいばかりで、役に立たない。身近なたとえをいえば、この湯ぶねの湯のようなものだ。これを手で自分の方へかき寄せれば、湯はこっちの方へ来るようだけれども、みんな向こう方へ流れ帰ってしまう。これを向こうの方へ押してみれば、湯は向こうの方へ行くようだけれども、やはりこっちの方へ流れて帰る。少し押せば少し帰り、強く押せば強く帰る。これが天理なのだ。
仁といったり義といったりするのは、向こうへ押すときの名前であって、手前にかき寄せれば不仁になり不義になるのだから、気をつけなければならない。
以下省略
~引用 二宮翁夜話(上) 発行:一円融合会刊 原著:福住正兄~
「湯船の教訓」で、二宮金次郎は「足りるを知ること」と「他者を満たすこと」の2つの視点で語っています。
そして、「たらいの水」の本質は「足りるを知ったうえで」で「他者を満たす」ことです。
まずは自分が足りるを知ること、すなわち欠乏欲求を小さくすること(我を小さくすること)。そのうえで、他者のために他者を満たすことが大事。
自分の利のために他者を満たすのは、ただの偽善です。
行為よりも心持ちを大切にしよう
最近は「お金を得るためにトイレをきれいにする」「幸せになるために感謝をする」など「○○のために△△をする」という考え方がほとんど。
しかし、「○○のために△△をする」という考えは、欠乏欲求からうまれるものであり、心は「○○ではない」こと強く意識するので、結果的にはうまくいかない。
大切なことは、「○○のために△△する」という行為ではなく、どんなときても「○○であろう」とする心を持つことです。
ただニコニコ笑顔の人ではなく、苦しくても笑顔でいようとする人。
自分が幸せになるための「ありがとう」よりも、自分の足りなさを知り、心から「ありがとう」を言える人。
トイレという汚れてしまう場所だからこそ、「いつもきれいにしよう」と心を持てる人。
自分の利の為に相手に与えるのではなく、一度我を手放したうえで、心から相手のために利を与えられる人。
「○○のために△△する」人よりも、どんな状況でも「○○であろう」という心持ちを持てる人が、本当の意味での魅力的な人なのではないでしょうか。
先の見えない難しい時代だからこそ、自分の心持ちを大切にしたいものですね。
まとめ
最初に紹介した方が「たらいの水」に違和感を抱いたのは「自分の利のために、相手に与える」という視点で「たらいの水」が語られていたからでした。
災害・飢饉・疫病などで社会と人々の心が荒廃した時代に、二宮金次郎は「心田開発」などを実践し数百の村と人々の心を立て直しました。
二宮金次郎が活躍した時代と令和の時代はどこか似ています。
コロナ禍となり我慢を強いられる生活が続いています。
でも、もしかしたら今までの日本は溢れんばかりの湯船に浸かっていただけかもしれません。
コロナ禍となりお湯が半分になってしまったとしても、自らがかがめば、十分に肩まで浸かることはできます。
大事なことは、ただ我慢をする生活ではなく、足りるを知る生活にシフトすることではないでしょうか。
そして、足りるを知る生活にシフトするために、1人1人が「○○であろう」という心を持つことだと、私は思います。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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