みなさん、こんにちは。
心理カウンセリング空の関口です。
私はいろいろな角度から心のことを勉強しているのですが、最近の心理に関する本を読んでいると、「心が安っぽくなったな・・・」と思うことがあります。
先日、心理カウンセリングのときに、お客様から「神社ミッションについて関口さんはどう思いますか?」とご質問をいただきました。
私は「神社ミッション」というものを知りませんでした。
お客様から「神社ミッション」について教えていただいたとき、私は「とても不自然な話である」という違和感を抱きました。
今日は「神社ミッション」のお話を踏まえながら、心の自然と不自然について考えていきたいと思います。
神社ミッションとは
まず、「神社ミッション」についてご紹介します。インターネットで調べてみたところ「神社ミッション」とは、有名な心理カウンセラーさんが提唱した「執着を手放す」方法のようです。
ポイントは以下のとおりです。
【目的】
・お金の執着を手放す
・お金がない から お金があるに
・結果として、何らかの見返りが返ってくる
【手段】
・人気のない神社で
・損をしていいという気持ちで
・1万円のお賽銭を入れる
まず前提として、私は「神社ミッション」をやったことがないので、これが「正しい」・「効果がある」かどうかわかりません。
もしかしたら「効果があること」なのかも知れません。
ただ、このお話を聞いたときに、私の心の中で違和感を抱きました。
その私の違和感を以下に書いていきます。
それは自然か不自然か
「神社ミッション」のお話を聞いたときに感じた違和感。それが、「とても不自然」だということ。
私が心のことを考えるとき、「自然界のものと置き換えて考える」ようにしています。例えば、お金をお米に置き換えて考えてみます。
【目的】
・お米の執着を手放す
・お米がない から お米がある
・結果として、何らかの見返りが返ってくる
【手段】
・人気のない神社に
・損をしていいという気持ちで
・お米をお賽銭箱にいれる
という感じになります。
「古びた神社のお賽銭箱に、お米を入れることで執着が離れ、見返りが返ってくる」とても不自然な話です。
現代は、普通にお米を買うことができるので、お米に執着はありません。
でも、もしお米が無くなってしまったら、誰もが「お米を食べたい」と執着をもちます。
そのときに、賽銭箱にお米を入れたら、お米が実るでしょうか?賽銭箱にお米を入れたところで、お米は実りません。お米は田んぼで実るものです。
それなのに、どうして1万円を賽銭箱に入れると、見返りが返ってくるのでしょうか。
お金の執着とは
執着とは
1つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと
よって、お金の執着とは、「お金のことに心をとらわれて、そこから離れられない心理状態のこと」です。
よく、執着を手放すことで、新しいものが入ってくると、言われています。では、どうして執着を手放すと、新しいものが入ってくるのでしょうか?
それは、今まで1つのことしか見えていなかった人が、執着を手放すことで、他のことも見えるようになるからです。
ポイントは、新しいものが入ってくるのではなく、「今まで見えてなかったものが見えるようになる」ところです。
これが心の自然的な作用です。
お金に執着があり、お金のことばかり考えていた人が、お金の執着を手放すことで、お金以外のことにも心を配ることができます。
その結果、今まで見えていなかった物事が見えるようになります。
会社の売り上げばかりを気にしていた社長が、売り上げの執着を手放すことで、社員やお客様の存在を実感できるようになりますね。
お金の執着を手放す為に、お賽銭箱に1万円を入れるのはいいのかもしれません・・・。
でも、その結果、見返りがあるような話になると、お金への執着が増すばかりだと思います。
見返りを求めると執着が上書きされる
「神社ミッション」をしたいと思う人は、自分は「お金に執着がある」と考えている人です。
お金に執着がある人が、1万円を賽銭箱に入れるには勇気が必要です。
そして、勇気をふりしぼって1万円を入れたからには、その行動に対しての正当性を無意識で求めはじめます。
例えば、「神社ミッション」を行ったあと、「宝くじ」が当たったとします。
こういうときは「神社ミッション」のおかげで当たったと考えてしまいます。
でも、「宝くじ」が当たったのは、「宝くじ」を買ったからであって、「神社ミッション」を行ったからではありません。
この因果関係を客観的に考えられないと、その人はお賽銭箱を見る度に、見返りを求めてお賽銭を入れはじめるでしょう。
最初はお金の執着を手放す為に1万円を入れたはずなのに、見返りを求めて1万円を入れはじめる。
これでは、執着の上書きです。
結局のところ、そういう人はお金に執着があるのではなく、「楽してお金を得たい」という考えに執着をしているのではないでしょうか。
手放すべきことは「お金の執着」ではなく、「楽してお金を得たい」という思考だと思います。
世の中に流通しているお金の量は一定です。
自分がお金を得るということは、誰かがお金を支払うということです。
自分が世の中に、何も提供していないのに、見返りだけが得られるという考えは、とても不自然なことです。
お金はどこで育つ?
みなさんは、お米がどこで育つかご存じですか?
そうです。お米が育つのは田んぼです。
お米は5月に種を蒔き、6ヶ月後の10月に実りを迎えます。
6ヶ月間でお米を多く収穫するには、田んぼをよく耕し、肥料を入れ、雑草を抜くなど、日々の手間暇をかけた管理が欠かせません。
では、私達のお金はどこで育つのでしょうか?
答えは社会です。
社会の中で、自分という価値をとおして、誰かに何かを提供することで、はじめてお金をいただけるようになります。
また、同じ時間でお金を多く得たいのであれば、自分の価値、誰かに何かを提供できる価値を高め続ける必要があります。
そのために、日々学び続け、心を修めていく必要があります。
これはお米も人間も同じことで、とても自然なことです。
最後に二宮尊徳の言葉をご紹介します。
仏教かは極楽浄土を説いて、”地上には金銀が敷きつめてあるし、山には珠玉が積みかさなっている。
海はといえば、サンゴ、コハク、ルリ、シャコ、メノウがいっぱいある”などという。
人々はそれを聞いて、そういう所に生まれたいと願う。
今つくづく世の中を見渡すと、網を海の中に入れれば魚が得られ、田畑を耕せば百穀が得られて、年々歳々尽きることがない。
これは、皆、金銀珠玉に換えられるものであり、たとえ換えられなくても、実際の値打ちは金銀珠玉にまさるべきものである。
実に我々の住む現世はこのとおり豊かなもので、これこそ真の極楽浄土ではないか。
しかし、勤めればそういう宝が得られるが、勤めなければ得られない。
よく勤めれば多く得られ、少なく勤めれば少しだけ得られる。実に絶妙の理法というべきだ。なんとこの世は尊ぶべき極みではないか。
~大貫 章著 二宮尊徳の道徳と実践より引用 二宮尊徳 語録220~
まとめ
上記が「神社ミッション」のお話を聞いたときに抱いた違和感でした。
もちろん、私の考えが正しいとは思いません。
でも、そう感じたのは事実なので、私はそのままお客様にお伝えしました。
私は「自然界の法則性」と「心の法則性」は一致していると考えています。
だから、心のことを考えるときは、心を自然界のことに置き換え、それが自然か不自然かで結論をだすようにしています。
心やスピリチュアルの話を聞くとき、その話が【自然か不自然か】という判断基準を持ちながら聞くことが大事だと思います。
なぜならば、私達も自然界の一部であるからです。
心を見ることはできませんが、自然を観察して理解することはできます。
自然界の法則性を理解して、それが自然か不自然か?と心の判断基準をもちましょう。
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