みなさん、こんにちは。
心理カウンセリング空の関口剛史です。
最近、電車の車内を見渡してみるとスマホに夢中になっている人ばかりです。
自分が座っている目の前にお年寄りが来ても、スマホに夢中で気づくことも譲ることもしない人。スマホを見るために出入り口の狭いところで腕を出している人。
とある親子は両親も小さな子供もスマホに夢中になっていました。確かに、子供がスマホに夢中になっていれば静かにしているので、人に迷惑をかけずに車内マナーを守れるかもしれません。
でも、この親子の光景を見たときに「人間は想像することを楽しめなくなりつつあるな・・・」と感じました。
今日は「流れゆく景色がつまらなくなったのか、景色を楽しめなくなったのか」について書いていきます。
流れゆく景色がつまらなくなったのか、景色を楽しめなくなったのか
私が小さい頃、電車に乗ったら外を流れる風景を見たくて、後ろ向きになって景色を眺めていました。その時、親から「人の迷惑になるから、靴を脱いで見なさい」と言われたものです。
でも、いつの日からか、後ろを向いてい景色を楽しんでいる子供を見かけなくなりました。
今も昔も、流れゆく景色は何も変わらないのに、どうして今の子供達は景色を見ないのでしょうか。
流れる景色がつまらなくなったのか、それとも子供が景色を楽しめなくなったのか、どちらでしょうか。
本当に楽しかったことは?
実は、子供にとって流れる景色が楽しいのではありません。
私自身のことを振り返ってみると、流れる景色が楽しかったのではなく、景色をみながら空想することが楽しかった。
「あの建物はなんだろう?」「この線路はどこまでつづいているのだろう?」など、流れゆく景色を見ながら「目に入ったもの」や「気になったこと」を基にして、空想に浸かっている時間が楽しかった。
他にも、公園でのおままごとやヒーローごっこ、どれもその遊びが自体が楽しいのではなく、その遊びをとおして頭の中で描いているイメージや空想が楽しいもの。
だから、ごっこ遊びで「悪役やって」といわれると、その子が描いているイメージと役割が違うから、けんかになったりもする。
きっと、小さくて何もできない子供、まだ知らないことばかりの子供にとって、空想は心から「楽しい」と感じられるもの。
でも、スマホという刺激的で受動的な楽しみが子供達の身近に与えられたことで、能動的に空想する機会が奪われているように思う。
いまの子供達が、車窓を流れる景色を見なくなったのは、景色がつまらないではなく、景色を見て空想することができなくなったから。
このブログで何度もご紹介しているミヒャエルエンデ著の「モモ」が現実になりつつあると感じます。
「とりわけ、こういうおもちゃは細かなところまで至れり尽くせりに完成されているために、子供が自分で空想を働かせる余地が全くありません。
ですから、子供たちは何時間もじっと座ったきり、ガタガタ、ギーギー、ブンブンとせわしなく動き廻るおもちゃの虜になって、それでいて本当は退屈していて眺めてばかりいます。けれど、頭の方が空っぽでちっとも働いていないのです」
~ミヒャエル・エンデ『モモ』より引用~
「おもちゃ」を「スマホ」に置き換えてみると、今の子ども達が置かれている状況に酷似します。
想像力を失い時間に追われるようになった人々のことを、モモでは「致死的退屈症」と紹介しています。
「はじめのうちは気付かない程度だが、ある日急に何もやる気がなくなってしまう。
何についても関心がなくなり、何をしても面白くない。
この無気力はそのうち少しずつ激しくなっていく。日毎に時を重ねるごとにひどくなる。
気分はますます憂鬱になり、心の中はますます空っぽになり、自分に対しても世の中に対しても、不満が募ってくる。
そのうちに、こういう感情さえなくなって、およそ、何も感じなくなってしまう。
何もかもが灰色で、どうでもよくなり、世の中はすっかり遠のいていてしまって、自分とはなんの関わりもないと思えてくる。
怒ることもなければ、感激することもなく、喜ぶことも悲しむこともできなくなり、笑うこともなくことも忘れてしまう。
そうなると、心の中は冷え切ってもう一切愛することができない。
ここまで来ると病気は治る見込みがない。後に戻ることはできないのだよ。うつろな灰色の顔をしてせかせかと動きまわるばかりで、灰色の男とそっくりになってしまう。
そう、こうなったらもう灰色の男そのものだよ。
この病気の名前はね、致死的退屈症というものだ」
~ミヒャエル・エンデ『モモ』より引用~
スマホの「楽しさ」は、光と音に演出された刺激的な楽しさ。刺激的な楽しさは脳の快楽で心では虚を感じる。そして、ある時から心の虚を感じたくないから、もっと強い刺激を求めるようになり最後は依存的になる。
自分が座っている目の前にお年寄りが前に立っても、スマホに夢中に気づくことも譲ることもしない人。気づいていて気づかない振りをしているのではなく、そもそも気づいてもいない。気づいていないから悪気もなにもない。周りと自分とは関わりもないと思っているようで、それは致死的退屈症の症状。
ミヒャエルエンデが「モモ」で伝えたかったひとつは「空想することの楽しさ」でした。
大人も子供もいつでもどこでも空想することはできます。
スマホをしていてフッと虚しさを感じたときは、幼少期に戻ってあれやこれやと空想してみてはいかがでしょうか。もしかしたら、忘れていた大切な何かを思い出すかもしれませんよ。
まとめ
AppleでiPhoneを開発したのスティーブ・ジョブスは、自分の子供にiPhoneを渡さなかったと言われています。おそらく、子供にiPhone渡すことで想像や空想をしなくなることを知っていたのでしょう。
想像力とは、新しく何かを生み出すことき・問題を解決するとき・相手を思いやるときに必要な能力です。想像力が乏しければ考えることも人を思いやることもできません。
自分中心でしか物事を考えられない人が増えているのは想像力が育っていないからで、想像力が育たなかったのは、子供の時に空想を楽しめなかったからだと思います。
今も昔も流れゆく車窓は変わりません。私たちが生きている自然界も何も変わっていません。その変わらないものを見て心から楽しいと感じられるように、想像力を育てていきたいものですね。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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