みなさんこんにちは。
心理カウンセリング 空の関口です。
IT技術の進歩により、色々な物事が情報システム化されて、私達の社会は効率的で便利になりました。
本来であれば、効率化された分だけ、私達の生活に「ゆとり」ができそうなものですが、実際のところはどうでしょうか?
社会が効率的で便利になればなるほど、私達の生活も忙しく時間に追われるようになっているのではないでしょうか。
私はうつ状態になるまで、常に時間に追われて仕事をしていました。
限りある時間の中でどう仕事をこなすのか?ばかりを考え、スケジュール帳に空白があれば、何かの予定を入れてスケジュール帳が埋まっていることに満足感すら感じていました。
でも、そんな私がうつ状態になり仕事から外れたとき「自由な時間」に苦しめられることになりました。
今日は私のうつ体験記として「自由な時間は孤独の時間」について書いていきます。
自由な時間は孤独な時間
前回の記事の続きです。
仕事を休職をするようになり、仕事のストレスから解放されましたが、今度は、会社に行けなくなった自分自身を認めることができず「自己嫌悪」という新しいストレスを抱える続ける状態になりました。
平日の朝、妻が子ども達が「いってきます」と出かけると自宅にポツンとひとり残される自分。
シーンと静まりかえった家の中で、何をするでもなく、何かする気も起こらず、ただ一人家の中でボーッとしているだけの時間。
それは孤独という時間でした。
そのとき思ったことがありました。
仕事で忙しく働いていた頃、「自由な時間があったら、あれして、これして、こんなこともやってみたい!」とずっと思っていた。
「時間にゆとりさえあれば、自分はいろんなことができるのに・・・」とも思っていた。
でも、うつ状態から仕事を休職するようになり、ある意味、望んでいた自由な時間はできたとき、そこには何もできなない自分がいました。
忙しく働いていたときに、望んでいた「自由な時間」とは何だったのだろう?
時間があったら何をしたいと思っていたのだろうか?と考えてみたけど、答えはわからない。
結局、時間にゆとりができても、心にゆとりをつくることはできず、逆に、時間にゆとりができた分だけ、自己否定をしたり孤独を感じる時間となり、休職期間中に心が晴れることはありませんでした。
続きを次回書きます。
今の自分から当時の自分へひとこと
まず、ミヒャエル・エンデのモモの一節をご紹介します。
時間をケチケチするという事は、本当は全然別のなにかにケチケチしている事に誰ひとり気付いていないどころか、自分達の生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっている事を誰ひとり認めようとはしない。
けれど、時間とは生きるというそのものなのです。
そして、人の命は心を住みかとしているのです。
人間が時間を節約すればするほど生活はやせ細っていくのです。
~ミヒャエル・エンデ ”モモ”より抜粋~
忙しくなればなるほど時間が貴重なものように感じてしまい、その結果、時間に追われてしまいます。
忙しかった頃の私は「いつか自由な時間がほしい」「時間さえあれば何でもできる」と思っていました。でも、実際に自由な時間ができたとき、私は何もできませんでした。
それはどうしてだったのでしょうか?
当時の事を振り返ると、仕事していた頃の私は「時間がないこと」を言い訳にして、自分自身のことを見つめていかったからだと思います。
仕事が忙しいから仕方が無い、時間がないから何もできない、時間を言い訳にして目先にあることばかりを熟しているとき、ある程度の達成感がありました。
でも、実はフッとしたときに「一体自分は何やっているのだろう?」「このままでいいのだろうか?」と寂しさを感じることがよくありました。
だから、休職となり仕事という目先の熟すものを失い自由な時間ができたとき、自分は何をしていいかわからなくなり孤独を感じてしまったのです。
「時間とは生きること」そのものなんですよね。
大事なことは、時間があったらなにをするか?ではなく、自分はどう生きたいのか?ということを考えてみること。
そして、自分で考えついたことに対して、少しだけでもいいので実際に行動を起こしてみること。
具体的に、「楽しく生きたい!」と考えついたのであれば、自分が楽しくなれるようなことに自分の時間を使うことも、うつを予防するひとつだと思います。
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