みなさん、こんにちは。
心理カウンセリング空の関口です。
もうすぐ読書の秋ですね。
読書の本当の楽しみは、本を読むことにあるのではなく、自分の中のあらたな「気づき」に出会うこと。
今回は「読書学」の6冊目です。
6冊目は稲盛和夫著の「生き方|人間として大切なこと」です。
今日はこの本と対話をしていきたいと思います。
豊かな日本で、心が満たされないのは?
現代の日本は、ライフラインに困ることもなく、近くのスーパーやコンビニに行けば、食べきれないほどの食材に囲まれている。
インターネットで情報を得ることができて、SNSで誰とでもつながれている。
それなのに、どこか閉塞感や孤独を感じる。
社会は豊かなのに、心が満たされないのはなぜだろう?
それは、多くの人が生きる意味や価値を見いだせず、人生の指針を見失ってしまっているからではないでしょうか。
今日の社会の混乱が、そうした人生観の欠如に起因するように思えるのは、私だけではないと思います。
戦後の日本では、まず経済を立て直し社会を便利に豊かにすることが目的とされ、三種の神器(テレビ・洗濯機・冷蔵庫)は夢の家電製品といわれていた。
きっと、当時の人は社会が便利に豊かになれば、人は幸せになれると信じていたと思う。
しかし、今の日本はどうだろうか?
物や食材があふれ、誰とでもつながれているのに、「幸せ」を感じられている人は少ないのではないだろうか?
どんなに物質的に豊かになったとしても、インターネットでたくさんの人とつながっていても、人間の心は満たされないことが最近わかってきた。
では、これからの社会では、私たち1人ひとりが何を目的として生きていけばいいのだろうか?
人生の目的とは?
これからの社会では、私たちは何を目的として生きていけばいいのだろうか?
私たち人間が生きている意味、人生の目的はどこにあるのでしょうか。
もっとも根源的ともいえるその問いかけに、私はやはり真正面から、それは心を高めること、魂を磨くことにあると答えたいのです。
稲盛氏は「心を高めること、魂を磨くこと」が人生の目的であり、生きる意味だと考えている。
これはとても宗教的な考え方で、以前の私であればこの考え方は理解できなかった。
しかし、うつ病を経験し心理学や農業をとおして心を学んだことで、この考え方は今は理解できる。
もちろん、この考えが正しい答えではない。
結局は、人生の目的や生きる意味なんて誰もが死ぬまでわからない。
ただ、私は稲盛氏と同じ考えでありたいと思う。
なぜならば、「心を高めること」が生きる目的であると考えることで、悩みや試練を受け入れやすくなるから。
もし、生きる目的が「楽しむ」ことになると、「楽しくない」ことを受け入れられないし、「幸せになる」ことが目的になると、苦しいことから逃げ出したくなる。
生きていると、楽しいこともうれしいことも、苦しいことも悲しいことも万遍なく起こる。
楽しいことうれしいことは、そのまま味わえばいい。
しかし、苦しいこと悲しいことが起きたときに「心を高めるための試練」と考えられた方が、物事を受け入れやすく気持ちは前を向きやすい。
試練を「機会」としてとらえることができる人、そういう人こそ、限られた人生をほんとうに自分のものとして生きていけるのです。
では、「心を高める」と言葉で言うのは簡単だけれど、具体的には日々をどう過ごせばいいのだろうか?
心を高めるには?
心を高めるということは、いったいどういうことなのでしょうか。
それは、けっして悟りの境地、いわば至高の善的境地に達するなどという、むずかしい話ではなく、生まれたときよりも少しでも美しい心になって死んでいくことではないかと思います。
心を高めるとは、美しい心であろうとすることを意識すること。
では、美しい心とはどんな心の状態なのだろうか?
稲盛氏は「正しい生き方」をすればいいと語っています。
正しい生き方とは、けっしてむずかしいことではないはずです。
子どものときに親から教わった、ごく当たり前の道徳心―― 嘘 をつくな、正直であれ、人をだましてはいけない、欲張るな、そういうシンプルな規範の意味
自分にも人にも、嘘をつかず正直であることが、正しい生き方。
しかし、一見あたりまえのような「正しさ」が、実は1番難しいこと。
何事も「言うは易く行うは 難し」で、実行していくのは容易なことではありません。それだけに原理原則は、それを強い意志で貫かなくては意味がないのです。
つまり、原理原則というものは正しさや強さの源泉である一方、絶えず戒めていないと、つい忘れがちなもろでもあります。
やはり人間は、自分や人にも嘘をつくし正直でいられないもの。
心では「正直でありたい」と思っていても、頭でつい「嘘」をついてしまうもの。
だからこそ、1日が終わるときに反省をして、「正しくあろう」という心を持ち続けることが大切なこと。
いつも反省する心を忘れず、自分の行いを自省自戒すること。
また、そのことさえも生きる原理原則に組み入れていくことが大切なのです。
心に描いたものを実現させるには?
「心を高めること、魂を磨く」には、まずは「正しい心」で生きようとすること。
次に、正しい心で描いた物事を1人ひとりが強く思いながら、かたちにしていくこと。
人生は心に描いたとおりになる、強く思ったことが現象となって現れてくる
これは「引き寄せの法則」や「思考は現実化する」などと同じ考えかた。
ただ、心で描いただけでは物事は実現しない。
ビジョンを実現させるために、稲盛氏は下記のように述べている。
まず「狂」がつくほど強く思い、実現を信じて前向きに努力を重ねていくこと。
次に、
その計画をいざ実行する段階になったら、再び楽観論に従って、思い切って行動にとりかかるようにする。
すなわち「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」ことが物事を成就させ、思いを現実に変えるのに必要なのです。
俗に言う「引き寄せの法則」のようなイメージをするだけではなく、それをかたちにするための計画を悲観的に考えてから、楽観的に実行することが大事。
また、心に描いた物事を実現させるとき、計画どおりに物事が進まずに試練や困難にぶつかるもの。
そのときに、その試練や困難が「心を高める」機会であると捉えて、「正しい心」であろうと努力することで、心は成長していく。
困難があれば、成長させてくれる機会を与えてくれてありがとうと感謝し、幸運に恵まれたなら、なおさらありがたい、もったいないと感謝する。
少なくともそう思えるような感謝の受け皿を、いつも意識的に自分の心に用意しておくのです。
足るを知るとは?
心に描いた物事を実現させようとするとき、試練や困難にぶつかり挫折しそうになるもの。
そういうときは、周りのあたりまえの物事に感謝をすること。
物質的にはどんな条件下にあろうとも、感謝の心をもてれば、その人は満足感を味わうことができるのです。
物事を実現させようとする動機が、自分の「心を満たしたい(心が満たされていない)」から実現させようとしているのか、それとも「心をより高めたい」から実現しようとしているのかは、まるで違うもの。
もし、心が満たされてないから何かを実現させようとしている場合は、仮にそれが実現ができたとしても満足感を味わえない。
すなわち「足るを知る」心、その生き方の実践が必要になってきます。
いまもっているもので足りる心がなかったら、さらに欲しいと思っているものを手に入れたところで、けっして満足することはできないはずです。
しかし、自分の「心を満たしたい」のか「心を高めたい」のか、どちらの動機からビジョンを描いているかを見極めるのが難しい。
だからこそ、日々「足りるを知る」の実践が必要になる。
心がくじけそうになった時、いま自分を支えてくれているあたりまえのの土台に感謝する事で心は満たされ、自分の正直な心を取り戻せるようになるから。
利他の心とは?
最後に「心を高めるために」に必要になるのは「利他の心」をもつこと。
「利他」の心とは、仏教で言う「他に喜かれかし」という慈悲の心、キリスト教でいう「愛」のことです。
もっとシンプルに表現するなら「世のため、人のために尽くす」ということ。
最終的に人間は周りとの関係の中で色々な事を学んでいき、お互いの心を高めていく。
よって、自分勝手に正しく生きていても、心は高まらない。
すなわち私心を抑えることは、利他の心に近づくことです。
この自分よりも他者の利を優先するという心は、人間のもつすべての徳のうちで特上、最善のものであると私は思っています。
しかし、「利他の心」も自分の「心を満たすため」に相手に何をしてあげるのか、それとも、自分の「心を高めるため」に何かを提供するのかで、その意味は180度変わってしまう。
ただし気をつけなくてはならないのは、利己と利他はいつも裏腹の関係にあることです。
つまり小さな単位における利他も、より大きな単位から見ると利己に転じてしまう。
会社のため、家族のための行為には、たしかに利他の心が含まれているが、「自分の会社さえ儲かればいい」「自分の家族さえよければいい」と思ったとたんに、それはエゴへとすり替わり、また、そのレベルにとどまってしまうのです。
相手のためにと思っていても、自分のためになっていることが多い。
例えば、相手に何かをしてあげたとき、相手からお礼がなくて怒りを感じてしまうのは、相手に何かをしてあげることで「心を満たしたい」という思いがあるから。
誰だって、相手に何かをしてあげたとき、お礼がなければ怒りを感じてしまもの。
しかし、そのときに自分のためにやったと思うことで、また「やってみよう」という気持ちが育つもの。
「利他の心」とは、自分を犠牲にして相手に何かをしてあげるのではなく、自分の「心のため」に相手が喜ぶことを探して行っていくことが本質なのだと思う。
まとめ
最後に、私たち人間はどのように生きていけばいいのでしょうか?
稲盛氏はこう語っています。
私たちはその役割を認識し、人生において努めて魂を磨いていく義務がある。
生まれてきたときより、少しでもきれいな魂になるために、つねに精進を重ねていかなければならない。
それが、人間は何のために生きるかという問いに対する回答でもあると思うのです。
一生懸命働くこと、感謝の心を忘れないこと、善き思い、正しい行いに努めること、素直な反省心でいつも自分を律すること、日々の暮らしの中で心を磨き、人格を高めつづけること。
すなわち、そのような当たり前のことを一生懸命行っていくことに、まさに生きる意義があるし、それ以外に、人間としての「生き方」はないように思います。
キリストもブッタもアドラーも「心」を探求したのに「人間の心はこういうものです」とひとつの答えを出せていない。
人間は紀元前から心について探究しているにもかかわらず、2018年の現代になっても心が解明されないのはなぜだろうか?
きっと、1人ひとりの「心」は1つひとつが違うから。
ただ、「心」には共通のテーマがある。
それが、1人ひとりの「心」は「自分らしい心」でありたいと願っていること。
「心を高める」とは「自分らしい心」に近づいていくことであり、最終的には「自分を知る」ことだと思う。
だから、私たちは1人ひとりが置かれた環境のなかで、日々どう感じどう考え、いろいろな悩みや葛藤があるなかで、自分の「正しい心」と向き合いながら、自分の答えを見つけていくこと。
そして、自分のために相手や社会に対してなにを提供できるか?を考え、1つひとつ実践していく続けていくことが人間としての生き方なのではないでしょうか。
「生き方|人間として大切なこと」は宗教的なことも書かれていますが、この本で1番大事なことは、1人ひとりが明確な指針を持って「今をしっかり生きていく」というあたりまえのことを言いたいのだと思います。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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