社会不安が大きいときほど「たらいの水」を意識しよう

みなさん、こんにちは。

心理カウンセリング空の関口剛史です。

新型コロナウイルスの収束が見えないなかで、学校が休みになり、イベントが中止になり、人の移動が制限される事態へと発展しています。

今まであたりまえのようにできたことができなくなり、不安やストレスを抱えている人が増えています。

心に大きな不安やストレスを多く抱えると、それらを解消させて安心を得るために自己中心的な行動にでてしまうもの。

しかし、安心を求めて自己中心的な行動を続けていると、いつまでたっても安心を得られない結果になります。その心の仕組みのことを二宮金次郎は「湯船の教訓」で説きました。

不安が広がるなかで、私たちはどんな気持ちで日々を過ごせばいいのでしょうか。

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たらいの水(湯船の教訓)

二宮金次郎語録のなかで有名なのが「たらいの水」、その元になった「湯船の教訓」をご紹介します。

世の中では、そなたたちのような富者が、みんな足りることを知らずに、飽きゆくまで利をむさぼり、不足を唱えている。それはちょうど、おとながこの湯船の中に突っ立って、かがみもせずに、湯を肩にかけながら、湯船が浅すぎるぞ、膝までも来ないぞと、どなるようなものだ。

もしも望みにまかせて湯をふやせば、小さい子どもなどは湯に入れなくなるだろう。だからこれは、湯ぶねが浅いのではなくて、自分がかがまないことが間違いなのだ。この間違いがわかってかがみさえすれば、湯はたちまち肩まで来て、自然と十分になるだろう。

他に求める必要がどこにあろうか。世間の富者が不足を唱えるのは、これと何ら変わらない。およそ、分限を守らなければ、千万石あってもなお不足だ。ひとたび分に過ぎた過ちを悟って分度を守れば、余財がおのずからでてきて、十二分に人を救えるはずだ。

この湯船が、おとなはかがんで肩につき、子どもは立って肩につくのを中庸とするように、百石の者は五十石にかがんで五十石の余財を譲り、千石の者は五百石にかがんで五百石の余財を譲る。これを中庸というべきだ。

もし町村のうちで一人この道をふむ者があれば、人々はみんな分を超えた過ちを悟るだろう。人々がみんなこの過ちを悟って、分度を守ってよく譲れば、その町村は富み栄えて平和になること疑いない。古語(大学)に「一家仁なれば一国仁に興る」といっているのは、このことだ。よく心得なければならない。

仁というものは人道の極致であるが、儒者の説明はやたらにむずかしいばかりで、役に立たない。身近なたとえをいえば、この湯ぶねの湯のようなものだ。これを手で自分の方へかき寄せれば、湯はこっちの方へ来るようだけれども、みんな向こう方へ流れ帰ってしまう。これを向こうの方へ押してみれば、湯は向こうの方へ行くようだけれども、やはりこっちの方へ流れて帰る。少し押せば少し帰り、強く押せば強く帰る。これが天理なのだ。

仁といったり義といったりするのは、向こうへ押すときの名前であって、手前にかき寄せれば不仁になり不義になるのだから、気をつけなければならない。

古語(論語)に「己に克って礼に復れば、天下仁に返す。仁をなす己による。人によらんや」とあるが、己というのは手が自分の方へ向くときの名前だ。礼というのはこの手を相手の方へ向けるときの名前だ。手を自分の方へ向けておいては、仁と説いても義の講釈をしても、何の役にも立たぬ。よく心得なければいけない。

いったい、人のからだの組み立てを見るがよい。人間の手は、自分の方へ向いていて、自分のために便利にできているが、また向こうの方へ向いて、向こうへ押せるようにもできている。これが人道の元なのだ。鳥獣の手はこれと違って、ただ自分の方へ向いて、自分に便利なようにしかできていない。

だからして、人と生まれたからには、他人のために押す道がある。それをわが身の方に手を向けて、自分のために取ることばかり一生懸命で、先の方に手を向けて他人のために押すことを忘れていたのでは、人であって人ではない。つまり鳥獣と同じことだ。なんと恥ずかしいことではないか。恥ずかしいばかりでなく、天理にたがうものだからついには滅亡する。だから私は常々、奪うに益なく譲るに益有、譲るに益有が奪うに益なし、これが天理なのだと教えている。よくよくかみしめて、味わうがよい。
引用 二宮翁夜話(上) 発行:一円融合会刊 原著:福住正兄

社会の不安が大きいときほど「たらいの水」を意識しよう

新型コロナウイルスが広がりを見せるなかで、学校が休みになりイベントも中止になり人の移動が制限され、今まで普通にできたことができなくなり、不安やストレスを抱えている人もいるかと思います。

人間は、何不自由なく生活をしているときは普通であることが当然で、少しでも普通でなくなると不安やストレスを抱えてしまうもの。

例えば、電車が事故で遅延するとSNSで不平不満のつぶやきが溢れても、電車が普通に動いていることに感謝のつぶやきがないのは、人間は普通であることが当然だと思い込み、普通でないことにすぐに不満を感じてしまうから。

しかし、今までの普通は本当に当然のことだったのでしょうか?

もしかしたら、物や食べ物が溢れていた今までの日本社会は、湯船にお湯が溢れんばかりに注がれ続けていた状態だったのではないでしょうか。

新型コロナウイルスの影響により、イベント自粛や人の移動が制限され経済が下がるのは、社会に溢れんばかりに注がれていたお湯が止まり減っていくようなもの。そのなかで自らしゃがむこともせずにいると、不安やストレスが大きくなり、我に我にとお湯をかき集めようとする。店からマスクが消え高値で転売されたり、トイレットペーパーが消えたりしたのは、一部の人が我に我にかき集めた結果。

二宮金次郎は「自分の方にかき集めると流れ消え、相手に押しやると自然と帰ってくることが天理」と語っています。それは、水でもマスクでもトイレットペーパーでも何でも同じこと。

心のなかで不安が先行すると、安心を求め、不安を解消させるため、自己中心的な動きをしてしまいますが、その自己中心的な動きこそが、不安を現実にさせてしまう最大の原因。

大きな社会変化のなかでは、誰もが不安でありストレスを抱えてしまうもの。しかし、1人ひとりの小さな不安が社会不安へとならないようにするためにも、不安なときほど、今までの普通を疑い、普通であることが実は豊かなことであることに気づき、相手を思いやる気持ちを持つことが大切なのではないでしょうか。

不安なときほど「たらいの水」の精神を意識しましょう。

まとめ

新型コロナウイルスを発端とする大きな社会変化のなかで、今ままで普通だと思っていたことが普通ではなくなりつつあります。

人間は変化を不安に感じるため、経験したことがない新しい変化のときは、どうしても今まで通りの普通を求めてしまい、更に不安やストレスが大きくなる悪循環に陥ってしまいます。

こういう時は、これまでの普通が豊かなことであることに気づき、いろいろ変化があっても今日も普通に生活できることに感謝し、そして不安なときほど「相手を思いやる気持ち」を1人ひとりが持つことが心のゆとりとなり、それが社会全体のゆとりになるのではないでしょうか。

令和の時代は変化の時代になると、私は思います。

変化の流れはとめることができませんが、変化の流れのなかで、どういう気持ちで過ごすのかは、1人ひとりが自由に選べます。

不安なときほど、顔を上げて周りを見て「相手を思いやる気持ち」を大切にしていきましょう。その相手を思う気持ちは帰ってくるのが天理なのだから。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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