みなさん、こんにちは。
心理カウンセリング空の関口剛史です。
新型コロナウイルスの影響により、イベントが中止になり、学校が休みになり、マスクなどが即時売り切れるなど、今までの普通の生活が一変し、先の見えない社会となってきました。
先の見えない社会では、1人ひとりの心のなかで不安が先行して、デマが広がり買い占めや転売が横行することで社会への不安も大きくなり、結果として不安が現実となります。
事実、不安から「トイレットペーパーが無くなる」というデマが、実際にトイレットペーパーが消える事態へと発展しました。
人間は、不安が強くなると今を疎かにします。しかし、先の見えない社会で不安を感じるときほど今を大切にしていくことが、不安を和らげる一つの方法です。
そのことを二宮金次郎は「現世の報恩勤行が大切」と説きました。
今日は、二宮金次郎の言葉を参考にしながら、不安なときほど今を大切にすることについて、書いていきます。
現世の報恩勤行が大切
二宮金次郎の「二宮翁夜話集」から「現世の報恩勤行が大切」をご紹介します。
翁のことばに、世間のありきたりの人情では、あす食うべき物がないときは、どこかへ借りに行こうとか、救いを請おうとかする気持ちがあるけれども、いよいよあす食う物がないという時には、かま(釜)も膳も椀も洗う気持ちがなくなるといっている。人情は実際そんなもので、もっともなことであるが、そういう気持ちが、困窮がその身を離れない根元なのだ。
どうしてかというと、毎日かまを洗い膳や椀を洗うのは、あす食おうがためであって、きのうまで用いた恩のために洗うのではない。これが心得違いなのだ。たとえあす食うべき物がなくなっても、かまも洗い膳も椀も洗い上げて餓死するがよい。それは、きょうまで用いて来て命をつないだ恩があるからだ。これが、恩を思うという道なのであって、この心がある者は、天意にかなうから、きっと長く富を離れない。
富と貧とは、遠い隔てがあるものではない。あす助かろうということばかり思って、きょうまでの恩を思わないのと、あす助かろう思いながらきのうまでの恩を忘れないのと、この二つの相違だけだ。これが大切な道理であって、よくよく心得るがよい。
仏教家は、この世は仮の宿で、来世こそ大切だと教える。来世の大切なことはもちろんだが、今世を仮の宿として軽んずるのは間違っている。
いま、一つの草でこれをたとえよう。草となったからには、来世の実が大切なのは無論だけれども、来世によい実を結ぶためには、現世の草のとき、芽立ちから精を出して、露を吸い肥やしを吸い、根を伸ばして葉をひらき、風雨をしのぎ、昼夜精気を運んで、根を太らせ枝葉を茂らせ、良い花をひらくように丹精しなければ、来世に良い実となることができない。だから草の現世にこそ大切なのだ。
人もそのとおりで、来世が良いようにと願うならば、現世において邪念を断ち、身を慎み、道をふみ、善行を勤めることだ。現世で人の道をふまず、悪行をした者が、どうして来世に安穏でいられようか。例の地獄は悪事をした者の死後にやられるところ、極楽は善事をした者の行くところということは、鏡を見るように明らかなのだから、来世の良しあしは現世の行いにある。だからして、現世を大切にして、過去を思わねばならぬ。ますはこの身はどうして生まれ出たかと、あとを振り返ってみることだ。論語にも「生を知らざれば、いずくんぞ死を知らん。」とある。
人の本性は天の令名にある。身体は父母のたまものである。我という者は、もともと天地の令名と父母の丹誠とでできたものだ。まずはこの道理からつきとめて、天徳に報い、父母の恩に報いる行いを立てねばならぬ。本性にしたがって道をふむのは人の勤めだ。この勤めさえ励んでおれば、来世は願わなくとも安穏なこと疑いない。どうして現世を雁の宿と軽んじ、来世だけを大切にすることがあろうか。現在には君があり父母があり妻子がある。だから現世は大切なのだ。
釈迦がこれを捨てて世の外に立ったのは、衆生の済度するためだった。世を救うには、世の外に立たなければ広く救いがたいからだ。それはちょうど、自分がすわっている畳を上げようとすれば、自分が畳の外に移らなければ上げられないようなものだ。それを世間の人が、自分一身をよくするために君や親や妻子を捨てるのは、迷いというものだ。ただ僧りょは、この法を伝えた者であって外の人だから別なのだ。混同してはならない。こういうことが、君子と小人の分かれるところで、わが道の安心立命はここにある。迷ってはならない。
~引用 二宮翁夜話(上) 発行:一円融合会刊 原著:福住正兄~
先の見えない社会で大切なこと
新型コロナウイルスが広がりを見せるなか、日本社会全体が不安に包まれているように感じます。
先の見えない社会では、1人ひとりの不安が強くなり、その不安を解消しようとして我先にと物を買い占める人がいたり、不安に乗じて高額で転売する人が現れ、その結果として、社会不安が大きくなり不安感が現実へと変わってしまう。
最近、マスクやトイレットペーパーが消えてしまったのは、1人ひとりの不安が現実になった現象のひとつ。
でも、いったい私たちは何が不安なのでしょうか?、何におびえているのでしょうか?
二宮金次郎は「富と貧とは、遠い隔てがあるものではない。あす助かろうということばかり思って、きょうまでの恩を思わないのと、あす助かろう思いながらきのうまでの恩を忘れないのと、この二つの相違だけだ。これが大切な道理であって、よくよく心得るがよい」と語っています。
明日助かろうと思って、マスクやトイレットペーパーを買い占めたり転売したりして今日を過ごす人と、今までマスクなどが「普通に買えた社会」の有り難さに気づき、そのことに感謝しながら今日を過ごす人のちがいが、心の富と貧を分けることになる。
心が貧しくなればなるほど不安におびえるようになり、顔は下を向き肩が狭まり呼吸が浅くなることで思考力が落ちストレスに感じることが増えてくる。その結果として、身体の免疫力の低下し不安が現実になってしまう。
ウイルスの蔓延が連日報道され、イベントの中止や学校も休校となり、生活必需品が心細い、先の見えない社会になかでは誰もが不安を感じてしまう。
私たちは、不安が強くなると今を疎かにしてしまい、不安を解消するための今日を過ごそうとしてしまう。
しかし、先が見えない社会だからこそ、今までの社会の有り難さに感謝しつつ、不安があっても今日も前を向いて笑顔になって過ごすことが、1人ひとりの心の豊かさとなり、それが日本社会の心からの豊かさに変わるのではないでしょうか。
最後に『モモ』に登場する道路清掃人のベッポじいさんの言葉を紹介します。
なあモモ、とっても長い道路を受け持つことがあるんだ。恐ろしく長くてこれじゃとてもやり切れないと思ってしまう。
そこで、せかせかと働きだす。どんどんスピードを上げていく、時々目を上げて見たのだが、いつ見ても残りの道路は減っていない。だから、もっとすごい勢いで働きまくる。心配でたまらないのだ。そして、しまいに息が切れて動けなくなってしまう。でも道路はまだ残っているのだ。こういうやり方はいかんのだ。1度に道路の全部のことを考えてはいかん。
わかるか?次の1歩ことだけ、次のひと呼吸のことだけ、次のひと掃きのことだけを考えるのだ。いつも、ただ、次のことだけをな。すると楽しくなってくる。これが大事なのだ。楽しければ仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらなきゃダメなんだ。ひょっと気がついたときには、1歩1歩進んだ道路が全部終わっておる。
どうやってやり遂げたかは自分でもわからん息も切れていない。これが大事なのだ。
~ミヒャエル・エンデ『モモ』より引用~
先の見えない社会だからこそ、見えない先を考えて不安になるのではなく、まずは今日を笑顔になって、自分のできることからはじめていきましょう。
まとめ
二宮金次郎は、飢饉により荒廃した社会と人々の心を立て直した人物です。
金次郎は、荒廃した社会を立て直すためには、人々の心を変えることが唯一の方法であり、田畑を耕すように心も耕し活性化させていく「心田開発」を説き、数多くの村と人々の心を復興させました。
文明技術が発達をしたとしても、私たち人類の歴史は繰り返されているように感じます。
令和の時代は「変化の時代」になると私は思います。
変化の時代では、今までのパターンや考えが通用せず不安感が強くなりやすいですが、不安におびえるのではなく、1人ひとりがこれまでに感謝をしつつ、自分の心と対話しながら今日を笑顔で過ごせるようになることが大切かと思います。
まずは、不安があっても笑顔の1日を過ごしてみましょう。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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