みなさん、こんにちは。
心理カウンセリング空の関口剛史です。
本屋に行くと、ビジネス書や心理学のなどいろいろな学びの本がありますね。
また、ネットにもセミナーやノウハウ・ハウツー情報があふれ、いったい「何を学ぶことが正しい」のかわからなくなってきています。
私たちはいったい何のために学ぶのでしょうか?
学びの本来の目的を見失うと、学ぶこと情報を得るが目的となり、最後は自己中心的になります。
二宮金次郎は、学ぶ目的を「世を益するのが正道」と説いています。
今日も二宮金次郎の一説をご紹介します。
世を益するのが目的
最初に二宮金次郎の「二宮翁夜話集」から「世を益するのが正道」をご紹介します。
世を益するのが正道
翁のことばに、神儒仏の書物は数万巻ある。
それを研究しようとすると、深山にはいって座禅しようと、その道をのぼりきわめてみれば、世を救い、世を益することのほかに道はありえない。
もしあるといえば、邪道に相違ない。
正道は必ず、世を益すること一すじだ。
たとい学問をしても、道を学んでも、ここに到達しなければ、よもぎ・むぐらがやらにはびこったように、世の中に用いないものだ。
世の中に用のないものは尊ぶに足りない。広がれば広がるほど世の害になる。
幾年の後にか、聖君が出て、このような無用の書物を焼き捨てるということも、ないとはいえない。
焼き捨てるまでは行かなくても、荒地を開くように、無用なよもぎ・むぐらを刈り捨てて、有用の道の広まる時節もないとはいえない。
ともかくも、世の中に益のない書物は見ぬがよい。
自他に益のないことはせぬがよい。
「光陰は矢のごとし」だ。人生六十年といっても、幼い時、老年の時がり、病気があり事故があって、仕事をする日数は至って少ないのだから、無用のことはしてはならぬ。
引用 二宮翁夜話(上) 発行:一円融合会刊 原著:福住正兄
学びの目的
最近、本でもネットでも色々なことが学べる時代となりました。
そのなかで、新しい技術・斬新なノウハウやハウツーを学ぶことで、もっと自分が楽(らく)に楽しくなれる類の学びが増えているように感じます。
例えば、「我慢をせずにあるがまま、あなたらしく生きていきましょう」という学びがあるとします。
今まで我慢して苦しんできた人には「そっか、あるがまま自分らしく生きていけば、楽になれるんだ」とひとつの学びになります。
もちろん、我慢をすることをやめれば、誰だって楽になれます。
しかし、そういう「自己中心的の学び」は、自分が楽になれる一方で、「あるがまま」という「わがまま」になっていないか、逆に他者に我慢を強いていないか?という視点が抜け落ち、最後は「自分が正しくて他者や社会が間違い」という自己中心的な人間性になります。
自己中心的な人間性が、他者や社会の益になれるでしょうか?
本当の学びとは、我慢することをやめることではなく、我慢をしてしまう本当の理由を知ること。
本やノウハウに答えを求めるのでなく、自分と向き合い心の中から答えを見つけだそうとすこと。
それは、心の中にあるネガティブなところと向き合うことであり、楽(らく)なことではないかもしれない。
しかし、我慢をしてしまう本当の理由を学び理解することで、苦しい我慢をする必要性がなくなるもの。
また、自分と向き合った分だけ人間性が高まり、人間性が高まった分だけ他者や社会に優しくなれるもの。
真の学びとは、自分が楽になるものではなく、自分の人間性を高めた結果、世や他者に利益をもたらすものだと、私は思います。
まとめ
二宮金次郎は「修行僧が山で十年間修行して何かを悟ったしても、その悟りが他者や社会の益になれなければ邪道だ」と説いてます。
二宮金次郎がそう考えるようになったのは、大飢饉で社会全体が苦しんでいるときに、山にこもる修行僧を見て「山で修行するなら、田畑は耕せ」と感じたからだと、私は思います。
学びがあふれている現代でも、セミナー会場に籠もり一生懸命に学ぶのもいいですが、やはりどこかで自分と向き合いながら、人間性を少しずつ高め心の器を広げながら、社会や他者に還元していくことが、大事だと思います。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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