みなさん、こんにちは。
心理カウンセリング空の関口です。
もうすぐ読書の秋ですね。
読書の本当の楽しみは、本を読むことにあるのではなく、自分の心の中から新しい「気づき」に出会うこと。
今回は、ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」をご紹介します。
私が、はじめて「夜と霧」を読んだのは「うつ状態」がひどい時期で、生きる意味を模索しているときでした。
そのときに、苦難のなかで「生きる意味を問うのをやめ、人生の問いに答えよ」というフレーズに、心を動かされました。
今日は、うつ病という視点を入れながら、「夜と霧」についてご紹介していきます。
ヴィクトール・E・フランクルとは?
最初に、ヴィクトール・E・フランクルとはどんな人物だろうか?
1905年、ウィーンに生まれる。ウィーン大学卒業。在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。
第二次世界大戦中、ナチスにより強制収容所に送られた体験を戦後間もなく夜と霧に記す。 1955年からウィーン大学教授。
人間が存在することの意味での意思を重視し、心理療法に活かすという実存分析やロゴテラピーと称される独自の理論を展開する。
フランクルは、ナチスの強制収容所に送られた際、希望も自由もない強制収容所なかで「人間はどうなるか、どう生きるか?」を自ら体験しながら観察を続けた。
強制収容所とうつ状態は異なるが、精神的に不自由で、未来に希望が持てないという点においては共通している。
抑圧から解放までの3段階とは?
フランクルは、強制収容所など肉体的・精神的に苦しい苦難に遭遇したとき、人間の感情は3段階のプロセスを踏むと語っている。
強制収容所で自分や他の人々を観察してえたおびただしい資料、つまりそこでの体験のすべてをまず整理し、おおまかに分類すると、収容所生活への被収容者の心の反応は3段階に分けられる。
それは、施設に収容される段階、まさに収容生活そのものの段階、そして収容所から出所ないし、解放の段階だ。
うつ病においても同じような感情プロセスを踏むと思う。私自身の体験から3段階の感情プロセスについて書きます。
第1段階 否定
第1段階の特徴は、収容ショックとでも言おうか。だからこの心理学で言うところのショック作用は、状況によっては実際の収容の前にも起こりうる。
~中略~
精神医学では、いわゆる恩赦妄想という病像が知られている。死刑を宣告されたものが処刑の直前に、土壇場で自分は恩赦されるのだ、と空想をし始めるのだ。
それと同じで、私たちも希望にしがみつき、最後の瞬間まで事態はそんなに悪くないだろうと信じた。
人間は、いきなりの苦難に遭遇したとき、その苦難を受け入れることができず、最初は物事を楽観的に考えようとする。
うつ病のかかりはじめも、気分が落ち込みはじめているにもかかわらず「まさか、自分がうつ病になるはずがない」と思うもの。
また、気持ちが落ち込んでいるにもかかわらず、仕事をがむしゃらに頑張ろうする。それは、「自分がうつ病になりつつある」ということを否定したいため。
しかし、いくら頭で頑張っても心はついてこない。
否定してきたことが、現実であると認めなくてはならない段階で、急に明るくなったりする。それがやけくそのユーモアだ。
こんな風に私たちがまだ持っていた幻想はひとつ、またひとつとついにえた。そうなると思いもよらない感情が込み上げた。やけくそのユーモアだ。
まずは自分自身をひいてはお互いを笑い飛ばそうと躍起になった。
今まで落ち込んだいた人が、急に明るく振る舞い、ユーモアを言うことで心を立て直そうとすることがある。
この時、周りは「よかった。元気になった」と感じる。しかし、実際には、その人の心は第2段階の「抑圧」に進もうとしている。
第2段階 抑圧
収容者はショックの第一段階から第二段階である。感動の消滅段階へと移行した。内面がじわじわと死んでいったのだ。
~中略~
第二段階の主な徴候である感情の消滅は精神にとって必要不可欠な自己保存メカニズムだった。現実はすっかり遮断された。
すべての努力、そしてそれに伴うすべての感情生活はたった1つの課題に集中した。つまり、ただひたすら生命を自らの生命をそして仲間の生命を維持することに。
いくら頑張っても心がついてこないことに絶望し、もう何もできないと思ったとき、第2段階の抑圧フェーズになる。
何かを考えたり、感じたりすることが億劫になり、何かをしようとは思えなくなる。
今日1日を生き抜くことが精一杯になる。
思考と感情を抑えることで、生命を維持しようとする。
しかし、思考と感情が抑えられることで、喜びも楽しみもない、先の見えない日々が続いていく。
第3段階 解放
長いうつ状態も、体と心を休ませ、通院や薬やカウンセリングなどを継続することで、抑圧された心は少しずつ解放されていく。
しかし、第3段階の解放時期が一番危険。
なぜならば、今まで抑圧されたエネルギーが、一気に解放に向かうから。
フランクルは第3段階の危険性を下記のとおりに語っている。
強制収容所から解放された収容者はもう精神的なケアを必要としないと考えたら誤りだ。
まず考慮すべきは次の点だ。長いところ、そら恐ろしいほど精神的な抑圧の下にあった人間、つまり強制収容所に抱いた人間は当然のことながら解放された後も、いやむしろまさに突然抑圧から解放されたために、ある種の精神的な危機に脅かされるのだ。
この危険とは、いわば精神的な潜水病に他ならない。精神的な圧迫から急に解放された人間も場合によっては精神の健康を損ねるのだ。
私自身も抑うつを状態から、気持ちが晴れかかったときに、気分転換に旅行に出かけたことがある。
旅行中は、気持ちが晴れ「もう、大丈夫」と思えた。しかし、旅行から帰ったら、一気に気持ちがどん底まで落ち込んだ。
今振り返ると、抑圧されていた感情を急激に解放したことが原因だった。
また、「うつ病から回復した人の人格が変わって、自分勝手になってしまう」ことがある。
その現象について、フランクルは以下のように語っている。
特に未成熟な人間が、この心理学的な段階で、相変わらず権力や暴力といった枠組みに囚われた心的態度を見せることがしばしば観察された。
そういう人々は今や解放されたものとして、今度は自分が力と自由を意のままにとことんためらいもなく行使していいのだと履き違えるのだ。
うつ状態など感情を抑圧し我慢してきた人が、「私が抑圧されたのは、誰かのせい。だから、ありのままの自分で、もう我慢しなくていい」と勘違いをすると、わがままの生き方を選択してしまう。
「苦しみからの解放」と「苦しみからの成長」を間違えてはならない。
苦難に遭遇したときに大事なことは、「人生からの問い」に答えようとすることにあるのだから。
苦難に耐える3つの方法とは?
非人道的な強制収容所などの苦難のなかで、人間が苦難に耐えるために、「愛するものに思いをはせる」・「精神の自由を奪われない」・「未来を信じる」の3つを持つことが必要であると伝えている。
これは、うつ状態のときにも同じことが言える。
愛するものに思いをはせる
収容所に入れられ、何かをして自己実現する道を断たれると言う、思いつく限りで最も悲惨な状況、できるのはただこの耐え難い苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人はうちに秘めた愛する人の眼差しや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。
うつ状態のとき、必ずマイナスの方向へ想像力を使っている。
しかし、自分が心から大切にしている人や物、過去の思い出など、プラス側へ想像力を向けることで、苦しみのなかにおいても、人間は心を満たすことができる。
精神の自由を奪われない
人は強制収容所に人間をぶち込んですべてを奪うことができるが、たった1つ、与えられた環境でいかに振る舞うかという、人間としての最後の自由だけが奪えない。
~中略~
つまり、人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在なるかについて、何らかの決断を下せるのだ。
典型的な収容者になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏み留まり、己の尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。
かつてドストエフスキーはこういった 「私が恐れるのはただ1つ、私が私の苦悩に値しない人間になることだ」
どんなに不自由な環境であっても、自分の精神の自由だけは、誰からも奪われないことを知ること。
うつ状態に陥っても、「どうせ自分はダメだ・・・」と被害者意識にならず、常に自分の主体性を持ち続け、いまの自分にできることを行っていけば、うつ状態であっても、自分は自分としてあり続けられる。
未来を信じる
強制収容所で破綻した人にはひとつの特徴があった。
それは、未来を、自分の未来をもはや信じることができなかったものは、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに、精神的な拠り所を失い、精神的に自分を見捨てて、身体的にも精神的にも破綻していたのだ。
うつ状態のときも、未来を信じることが難しいもの。
しかし、未来をあきらめてしまうと、精神的に破綻してしまう。
では、強制収容所やうつ状態など、まったく先の見えない苦難のなかで、未来を信じるにはどうすればいいのだろうか?
苦難の中で生きる目的をもつには?
苦難の中でも、未来を信じられるようにするために、フランクルは以下のように語っている。
強制収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的を持たさなければならなかった。
収容者を対象とした心理療法や精神衛生の治療の試みは従うべきは、ニーチェの的を射た格言だろう。
「なぜ生きるかを知っているものは、どのように生きることにも耐える」
したがって、収容者には彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、事あるごとに意識させ、現在のありような悲惨などのように、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。
苦難の中では「生きる目的」を意識させ、苦難に対しての精神的な抵抗力をもたせること。
その次に「人生からの問い」を考えさせること。
私たちが生きることから何かを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが、私たちから何を期待してるから問題なのだ。ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。
~中略~
哲学用語を使えば、コペルニクス的展開が必要なのであり、もういいかげん、生きる事の意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立ってることを思い知るべきなのだ。
生きることが日々 、そして時々刻々問いかけてくる。
私たちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり、言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。
苦難に遭遇したとき、「なぜ、自分だけがつらい生き方をしてまうのか・・・」と「生きる意味」を考えてしまうのは、「生きるの意味」がわかれば、苦難を受け入れやすくなるから。
しかし、フランクルは、「生きる意味」を求めるのではなく、苦難という「人生から問い」に対して「あなたは、あなたとしての答えを見いだしなさい」と語っている。
「なぜ、うつ病になってしまったのか・・・」と意味を問うのではなく、「うつ病を経験した人生から、自分は何を見いだすのか」を問うこと。
誰もその人から苦しみを取り除くことができない。
誰もその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむ事は出来ない。
この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、 2つとない何かを成し遂げるたった1度の可能性はあるのだ。
苦しいとき、その苦しみから逃げ出したくなるし、生きる目的を見失い、生きることをあきらめたくなることもある。
しかし、人生は「あなたを苦しませるために苦難を与えている」のではく「あなたが何かを成し遂げるために苦難を与えている」と考えたら、苦難の意味は変わるのではではないだろうか?
苦しむこととは何かをなし遂げること
私たちにとっては、苦しむことですら課題だったのであって、その意味深さにもはや目を閉じようと思わなかった。
私たちにとって苦しむ事は何かを成し遂げる事という性格を帯びていた。
もし、苦しみが課題であり、何を成し遂げるためにあるものだとしたら、苦しみは、何を成し遂げるためにあるのだろうか?
生きるとは、つまり、生きることに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受ける事に他ならない。
苦難なとき、心が苦しく、その苦しみから逃げたり、誰かのせいにしたりして、心を解放したくなる。しかし、それでは自分はなにも変わらない。
自分はなにも変わらないから、また同じような困難にぶつかってしまう。
なぜならば、苦しみとは「生きることに正しく答える義務」だから。
人間は、物事がうまく流れているときに、何かを考え、何かに気づくことができないもの。
しかし、苦しいときだからこそ、何かに気づき、これからを考え、そして、新しい行動を起こすようになり、その結果、精神的に成長し、何かを成し遂げることができる。
そして、何かを成し遂げたときに、はじめて「人生の問い」の答えと意味がわかり、精神的な成長を実感できるようになる。
人間はどこにいても運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から精神的に何かを成し遂げるかどうか、と言う決断を迫られるのだ。
これが、フランクル自身が「強制収容所の体験」という「人生の問い」から見いだした、ひとつの「答え」だと思う。
まとめ
私がうつ病で苦しんでいたとき、「どうしてうつ病になってしまったのか」ばかりを考えていました。
しかし、いくら考えてもその答えはわかりませんでした。
その頃、「夜と霧」を何度も読み返し、心の中の問いが「うつ病を経験した人生から、自分は何を見いだすのか」に変わり、その結果、抑圧されていた心が、ふたたび動きはじめました。
生きていると、自分の思いどおりにならないこと、思っていなかったことが、苦難として訪れることがあります。
それは、「その苦しさから、あなたは何に気づき、何を見つけますか?」という、人生から問いかけかもしれません。
そして、その苦しさの中から、あなたがあなたとしての答えを見つけたとき、本当の意味で心は解放されると同時に精神的な成長をします。
人は、苦難の中から、精神的に成長していく。
これが、フランクルが強制収容所の体験から見いだした答えなのだと思います。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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