言葉とは、その人の心を表すもの~禍福の根元~

    みなさん、こんにちは。

    心理カウンセリング空の関口剛史です。

    最近、国会議員や大臣などの失言が相次いでいますね。

    自分の口から発せられた言葉は取り返しがつかないこと、子どもでもわかっていることなのに、どうして失言を繰り返してしまうのでしょうか?

    それは、言葉とは、その人の心を表すものだからです。

    今回は、二宮金次郎の「禍福の根元」をもとに「言葉」について考えていきたいと思います。

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    禍福の根元

    最初に二宮金次郎の「二宮翁夜話集」から「禍福の根元」をご紹介します。

    禍福の根源

    翁の言葉に、禍福は2つ別々にあるものではない。元来一つのものだ。

    手近なところで例えれば、庖丁でなすを切ったり大根を切ったりしていれば福(さいわい)だが、もし指を切れば禍(わざわい)だ。つまり柄を持って物を切るか、誤って指を切るかの相違だけなのだ。

    そもそも柄ばかりあつまって刃がなければ庖丁でないし、刃があって柄がなければ役に立たない。柄があり刃があって庖丁なのだし、柄があり刃があるのは庖丁の常なのだ。

    それなのに、指が切れれば禍といい、菜が切れれば福という。してみれば禍福といっても手前勝手なものではないか。

    水についても同様で、畦を立てて水を引けば田地が肥えて福になるし、畦なしで引けば肥土が流れて田地がやせ、言いしれぬ禍になる。これも、畦があるかないかの相違だけで、もともと同一の水なのに、あぜがあれば福となり、あぜがなければ禍となるのだ。

    また、富はひとの求めるところのものだけれども、おのれのために求めるときは禍がついてくるし、世のために求めるときは福がついてくる。

    財宝も同様で、積んで世のために散ずれば福となるし、積んで散じなければ禍となるのだ。

    こういう道理は、誰でも心得ておかねばならない。

    引用 二宮翁夜話(上) 発行:一円融合会刊 原著:福住正兄

    言葉とはその人の心を表すもの

    1本の包丁があるとします。

    この包丁は道具でしょうか?それとも凶器でしょうか?

    包丁で料理を作り、人を喜ばせれば道具となり、包丁で人を殺めれば凶器となります。

    包丁は包丁です。

    しかし、包丁が道具になるのか、それとも凶器になるのかは、その人の使い方、すなわちその人の心のあり方に委ねられています。

    「料理で人を喜ばせたい」という心であれば包丁は道具になり、「自分の思い通りにならないと許せない」という心であれば包丁は凶器となる。

    すべての物事は、それを扱う人間の心ひとつで、道具にもなれば凶器にもなる。

    そのことを二宮金次郎は「禍福の根元」として伝えました。

    私たちの言葉も包丁と同様で、思いを伝える道具になれば、誰かを傷つける凶器にもなります。

    自分の思いを伝えること、相手の思いをくみ取ることに言葉を使えばコミュニケーションの道具となり、自分勝手な言葉や相手を傷つける言葉は凶器になります。

    「口は心の門」ということわざがあるとおり、心の中で思っていることは言葉として出てしまうものであり、逆に心の中で思ってもいないことは、言葉にすることはできません。

    よって、言葉とはその人の心を表すものです。

    最近、国家議員や大臣の失言が問題になっています。

    なぜ、国会議員や大臣の失言が繰り返されてしまうのでしょうか?

    それは、その言葉がその人の心を表すものだからです。

    ある党が「失言防止マニュアル」を作成したそうです。

    「失言防止マニュアル」を読んで「失言に気をつけよう」と思ったとしても、これからも失言は続くことでしょう。

    それは、その人が日頃思っていることを言葉にしたら、それが「失言」になるからです。

    何を言うか言わないかではなく、日頃何を思っているか、どういう人間かが重要だからです。

    確かに、最近のマスコミは発言を意図的に切り取りして「失言」を作り上げているところもあります。

    しかし、国会議員や大臣の本質は、失言をしないようにするのではなく、1人ひとりがどんな心持ちで職務にあたるのか?、どんな心で国民と接するのか?を真摯に考えることではないでしょうか?

    二宮金次郎は「富はひとの求めるところのものだけれども、おのれのために求めるときは禍がついてくるし、世のために求めるときは福がついてくる。財宝も同様で、積んで世のために散ずれば福となるし、積んで散じなければ禍となるのだ」と語っています。

    少し言い換えると「地位は人の求めるところのものだけれども、己のために求めるときは災いになり、世のために求めると福となる。学問も同様で、積んで世のために散ずれば福となるし、積んで散じなければ災いとなるのだ」になります。

    二宮金次郎が荒れ果てた数多くの村を立て直せたのは、農民から信頼できる政治家だったから。

    そして、信頼できる政治家だったからこそ、農民1人ひとりもやる気がでたのではないでしょうか?

    いつの時代も、政治のための政治家ではなく、国民のための政治家であってほしいものです。

    まとめ

    なんだか、政治家を批判するような文章になってしまいましたが、大事なことは、他者の発する言葉を批判することではなく、自分自身が発する言葉を意識することです。

    心に思うことは言葉にできて、心にも思わないことは言葉にすることもできません。

    言葉とは、その人の心を表すもので、人間性そのものです。

    日々の言葉が、これからの心をつくっていきます。

    言葉をとおして心を知り、言葉をとおして心を育み、人間性を高めていく。

    何気なくつかう言葉だからこそ、その言葉の大切さをいつも忘れてはいけませんね。

    ここまで、お読みいただきありがとうございます。

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