本当の心学とはなにか?~入口は多く、大道はひとつ~

みなさん、こんにちは。

心理カウンセリング空の関口剛史です。

いま、心理学やコーチング・NLPなど、心理に関する学びが増えています。

人間1人ひとりが日常に幸せを感じられるのであれば、わざわざ心理を学ぼうとは思えません。

心理に関する学びが増えている背景には、ストレス社会であったりどこか満たされない生活であったりと、日々に充足感を得られないからではないでしょうか。

私も、人生に挫折しているときに「心理」を学びはじめました。

心理学・コーチング・NPLや宗教・哲学をとおして「心理」を学び知ることで、私の人生の「何かが変わる」と思っていました。

セミナーにもたくさん参加しました。セミナーを受けた後は「何かが変わりそう」な気がするのですが、1週間もすれば、すぐに元に自分に。そして、また違うセミナーに通うなどを繰り返し「人生を変える方法」や「人生を生きる意味」をどこかに探し求めていました。

しかし、二宮金次郎の「入口は多く、大道はひとつ」を読んだときに、私は「答えや意味」を外に求めるから、心に迷いが生じることに気づきました。

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入口は多く、大道はひとつ

入口が多く、大道は一つ

翁の言葉に、世の中にまことの大道はただ一筋なのだ。

神道といい儒教といい仏教といっても、みんな、同じ大道に入るべき入口の名だ。あるいは天台といい、真言といい、法華といい、禅といっても、同じ入口の小路の名だ。

いったい何の教、何の宗旨というようなものは、たとえばここに清水があって、この水で藍をといて染めるを紺屋といい、紫をといて染めるのを紫屋というようなもので、その元は一つの清水なのだ。

紫屋では、うちの紫がすばらしいこと、天下の織物で紫に染まらぬものはないと自慢をするし、紺屋では、当方の藍の徳たるや広大の無辺で、ひとたびこの藍がめにはいれば、すべての物ことごとく紺となるという。

それで染められた紺屋宗の人は、わが宗の藍よりもほかにありがたいものはないと思い、紫宗の物は、わが宗の紫ほど尊いものはないという。

これらみんな、「迷うがゆえに三界は城なり」という三界城内を、まごついて出られない連中なのだ。

紫でも藍でも、大地にうちこぼせば、また元のとおり、紫も藍もみんなぬけ落ちて、本然の清水にかえる。そのように、神儒仏をはじめ、心学・性学など数えきれぬほどあるが、みんな、大道の入り口の名なのだ。

この入り口が行きつくところは必ず一つのまことの道だ。

これを、別々に道があると思うのは迷いだし、別々だと教えるのは邪説なのだ。

たとえば、富士山に登るようなもので、先達によって吉田口から登るのもあり、須走口から登るのもあり、須山口から登るのもあるが、登りつめて絶頂に達すれば一つなのだ。

こういうものでなければ真の大道とはいえない。

けれども、まことの道に導くといって、まことの道に行きつかず、無益に枝道に引き入れる物がある。これを邪教という。

まことの道にはいとうとして、その邪説にあざむかれて枝道にはいったり、あるいは自ら迷って邪路に陥るものが、世の中に少なくない。心しなければならないことだ。

引用 二宮翁夜話(上) 発行:一円融合会刊 原著:福住正兄

本当の心学とはなにか?

心理学やコーチング・NLPなど、人間の「心理」に関する学びが増えています。

文明が発達し生活が豊かになり、インターネットが普及し誰とでもつながれるようになりました。

しかし、それでも社会に閉塞感を抱き充足感を得ることができず、日常に幸せを実感することができない。物質的な豊かさやSNSでつながるだけの安心感だけでは、心が満たされないことに気づきはじめたから、心を学ぶ人が増えているのだと思います。

心理やコーチング・NLP・哲学など、心の学び(以下心学)には2つの種類があると思います。

ひとつが、開放感や達成感や幸せを感じ得ようとする「表面的な心学」で、もうひとつが自分の心を学ぼうとする「本当の心学」です。

今の閉塞感やストレスの日常から抜け出すために、開放感や達成感や幸せを感じ得ることを目的として、心を学ぼうとすると、表面的な心学びになります。

学問としての心理学、人を操るコミュニケーション術、願望実現のための目標設定スキル、リラックスするだけのヒーリング術など、知識やスキルを学ぶことで、他人の心を操作すること、自分の心を軽くしようとするアプローチは表面的な心学です。

もちろん、知識やスキルを学ぶことも大切です。

しかし、表面的な心学では、自分の心が「なぜ、閉塞感やストレスを感じ得てしまうのか?」「自分にとっての本当の幸せとはなにか?」など、自分の本当の心にアプローチできていないため、知識やスキルを学んだ後もいつも同じようなことで悩んでしまうのです。

以前の私が、いくら心理学を学んでもセミナーに通い続けても「何にも変わらなかった」のは、表面的な心学ばかりを学んでいたからです。

いろいろと学んでも「変われない自分」にイライラしていたときに、二宮金次郎の「入り口が多く・大道はひとつ」の一説に出会い、ハッと気づきました。

たとえば、富士山に登るようなもので、先達によって吉田口から登るのもあり、須走口から登るのもあり、須山口から登るのもあるが、登りつめて絶頂に達すれば一つなのだ。

こういうものでなければ真の大道とはいえない。

今まで私が学んできた心学は、富士山の登り口の種類を学んだり、「正しい登り口」を探し求めてばかりいるから、「人生が何も変わらないこと」に気づきました。

それと同時に、私自身が本当に学ばなければならないことは、学問として心理学やコーチングやNLPなどはなく、「自分の心」の中にあることが腑に落ちました。

「自分の心」を知る・学ぶために、日常のなかで自分の心が「なぜ、閉塞感やストレスを感じ得てしまうのか?」「自分にとっての本当の幸せとはなにか?」など、自分の心に問いや意識を向けていきました。

心に問いや意識を向けることで「本当の気持ち」が少しずつ見えはじめ、自分の本当の気持ちと現実が合っていないから、閉塞感やストレスを感じていることが理解できたと同時に、今の私が進むべき道、登るべき山がどこにあるのかを理解しました。

二宮金次郎は、「神儒仏をはじめ、心学・性学など数えきれぬほどあるが、みんな、大道の入り口の名なのだ。この入り口が行きつくところは必ず一つのまことの道だ」と言います。

では、まことの道とはどんな道なのでしょうか?

まことの道とは、1人ひとりの人生をとおして「自分を知ること」「自分の心を理解していくこと」ではないでしょうか。

キリストもお釈迦様も、フロイトもアドラーも、孔子も二宮金次郎も「人間の心はこうです!」と明確な答えを打ち出せていません。そもそも心に正しい答えはないのだと思います。

心理学・NLP・哲学などの心学は、自分の心を知るためのひとつの道であり、その道に正しいも誤りもありません。

いまの人生をとおして、自分の心に問いや意識を向け続けことが「自分を知る」ことであり、その道がまことの道なのではないでしょうか。

最後に、ヴィクトール・E・フランクルの言葉をご紹介します。

生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

生きる事は日々 、そして時々刻々 、問いかけてくる。私たちは、その問いに答えを迫られている。

考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。

生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々刻々の要請を満たす義務を引き受けることにほかならない。

~ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」より引用~

まとめ

心理カウンセリングにおいて「クライアントの悩みの答えは、クライアントの心の中にある」と言われています。それは、出来事・事象を受け、それを「悩み」と感じるのも、クライアントの心そのものだからです。

よって、カウンセリングでは「悩みを解決する方法」を考えるよりも「なぜ、そのことで悩むのか」ということを一緒に考えることで、自分の本当の気持ちに気づき、結果として悩みや心が軽くなります。

私たち1人ひとりが学ぶべき心学とは、心理学の教科書やセミナー会場にあるのでなく、1人ひとりの1日のなかにあるのだと思います。

二宮金次郎の「入り口は多く、大道はひとつ」を読んで、私はそう感じ・考えるようになりました。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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