みなさん、こんにちは。
心理カウンセリング空の関口です。
先日カウンセリングの中で「人生の意味」についてお客様と話しあいました。
「人生で起こる出来事には意味がある、人生に意味のない出来事は何一つない」という意見や、逆に「人生に意味なんてない」という意見もよく聞きます。
人生で起こる出来事や私たちの人生そのものに果たして意味があるのでしょうか。
いま流行のアドラー心理学にも「人生の意味の心理学」があるように「人生の意味」は長年人間が探求してきたテーマのひとつ。
私自身もうつ病で悩んでいたとき「うつ病になった意味や人生の意味」をずっと考えていた時期がありました。
そのときに私が感じたことは「人生で起こる出来事の意味を求めている時点では、その出来事に意味はない。
その出来事に対しての意味は「これから自分が作り出していくもの」だと思いました。
今日は、人生で起こる出来事や人生そのものの意味について私が感じていることを書いていきます。
出来事の意味を求めるとき
いきなりですが、みなさんに質問です。
みなさんが、起きた出来事に対して、その出来事の意味を求めたくなるときは、どんなときでしょうか。ここで読むのをやめ、ぜひ考えてみてください。
いかがでしたでしょうか。
みなさんは、どんなときに出来事の意味を問いたくなるのでしょうか。
恐らく、自分にとって受け入れがたい出来事のとき、すなわち「試練に直面している」ときに意味を問いたくなるのではないでしょうか。
人は楽しい出来事や、幸せを感じるようなことに、わざわざその意味を問いたいとは思いません。
なぜならば、楽しいことは楽しい、幸せなことは幸せと「そのまま感じること」ができているからです。
人はうまくいっているときに、その意味は求めません。
逆にうまくいっていないとき、試練に直面しているときに、その意味を求めるのです。
なぜ人は、試練に直面するとその意味を求めたくなるのでしょうか。
うつ病になった意味を求めた結果・・・
私自身がうつ病で悩んでいるとき「人生で起こる出来事には意味がある」という言葉を知りました。
この言葉を知ったとき「うつ病になったことには意味がある」と解釈し、「そっか、うつ病になったことも、きっと意味があるんだな・・・」と少し気持ちが楽になれました。
しかし、この言葉を知ってから「私がうつ病になった意味はなにか?」と意味を問うようになりました。
うつ病になった意味を考えていくと「神さまが与えた試練」とか「何かに気づくきっかけ」とか「自分らしく生きる転機」など、抽象的な考えは思いつくのですが「意味はこれだ!」という具体的な答えを見つけることはできませんでした。
次に、そもそも「うつ病になった意味を知って、私はどうしたいだろう・・・」と考えるようになり、そのときにわかりました。
本当は【うつ病になった意味が知りたいのではなく、うつ病になった事実を受け入れる理由が欲しい】ということに。
うつ病になった事実に対して「何かに気づくために、神さまが与えた試練」と意味をつけることで、私はうつ病になった事実を受け入れやすくなります。
受け入れがたい試練を受け入れる必要があるとき、何らかの大義名分(理由)が心には必要なものです。
では、人生に起こる出来事に意味はないのでしょうか?
人それぞれ答えは違うでしょうが、私はうつ病の経験から「出来事の意味を求めている時点では、その出来事に意味はない。その出来事に対しての意味は、これから自分が作り出していくもの」と考えるようになりました。
出来事の意味は自分で作り出す
みなさんが映画を見ているとき、映画のワンシーンワンシーンに出来事の意味を求めて見ていますか?
主人公がストーリーの半ばで試練に直面したとき「ここで主人公が試練に直面する意味はなんだろうか?」と考えてみていますか?
映画のワンシーンを見ている時点では、そのワンシーンに意味はありません。ただその時のシーンが描写されているだけです。
しかし、映画のストーリーがエンディングに近づけば近づくほど、先ほどのワンシーンが意味を持つようになります。
先ほどの例では、主人公が半ばで試練に直面しそこから主人公は更に成長し最後の強敵に勝てたとき、ストーリー半ばの試練の意味をはじめて知ることができます。
私たちの人生も映画と同じではないでしょうか。
人生ストーリーの半ばに起こる試練の意味は、その時点では誰もがわかりません。
わからないことを考え続けても、ただ時間が過ぎ去るだけです。
それよりも、試練に直面したときに考えるべきことは、その試練を人生の「転機」にするのかそれともただの「挫折」にするのかを考えてみることです。
うつ病にかかった当時、私は「なんでうつ病になんかに・・・」と病気になったことを人生の挫折と捉え、人生で最悪な出来事と意味付けしていました。
しかし、今振り返ってみると「うつ病になれてよかった」と思う私がいます。
ここまで、いろいろな大変な試練がありましたが、その試練ひとつひとつ意味があり「転機」になったと、今は心から思えるようになりました。
きっと、誰の人生にも試練が訪れるのだと思います。
もちろん、私自身にもまだまだ試練が訪れることでしょう。
その試練を避けることはできませんが、その試練を「挫折」で終わらせるのかそれとも「転機」にしていくのかは、1人ひとりが選べるのだと思います。
そして、試練を転機に変えていくには、試練に直面したときにその試練を受け入れそこから何かを学ぶ姿勢を持てるかどうかだと思います。
きっと、人生で起こる出来事に意味があるのではなく、その出来事から「あなたは、どんな意味を見いだせたのか?」が、最終的に人生の意味につながっていくのだと私は思います。
人生は思い通りにはいかんから覚悟しとけ。
右にコケ、左にコケ、コケるから面白い。
~島田洋七著 がばいばあちゃん より引用~
最後に、ヴィクトール・E・フランクルの言葉をご紹介します。
生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。
生きる事は日々 、そして時々刻々 、問いかけてくる。
私たちは、その問いに答えを迫られている。
考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。
生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々刻々の要請を満たす義務を引き受けることにほかならない。
~ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」より引用~
まとめ
人生の最後を迎えるとき「走馬灯のように人生を振りかえる」と言われています。
もし、それが本当だとしたら、なぜ、死に際にわざわざ人生を振りかえる必要があるのでしょうか?
もしかしたら、そこで人生の意味を知ることができるのかもしれません。
逆にいうと、それまでは人生の意味なんてわからないということです。
最後までわからない人生の意味を考え続けるよりも、自分自身が納得のいく人生の終わりを迎えられるように、今から何をすべきかを考え行動を起こすことの方が、結果的に意味ある人生になるのではないでしょうか。
私はそう信じています。
私の人生、何だろう?とか難しく生きるなよ。
そんなこと終わりにしかわからんばい。
~島田洋七著 がばいばあちゃん より引用~
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