今年の夏はまとまった雨が降らない日々が続いています。
稲に穂が実り始めたら、田んぼに常に水をはっていきます。
今のところ水は問題ないのですが、もし、水不足で水を入れることができなかったらどうなるのだろう?と考えてみました。
もし、水がはれなくなれば、この田んぼ、今年はお米が収穫できなるなる。
でも、この田んぼでお米が収穫できなくとも、日本の他の地区でお米は収穫されており、そのお米をスーパーで買えばいいので生きていくうえで死活問題にはなりません。
もし、これが大昔の人であればどうでしょうか。
毎年、田んぼで育てるお米は、秋以降に生きていく必要なエネルギー源。
もし、お米が収穫が出来ないとなると、秋以降自分たちが生きていけるかどうかの死活問題になってきます。
水源管理・水路も整備されていない当時は雨が降らない=お米がとれない=死活問題であり、だからこそ、雨が降らないときは神様に対して雨乞いをしたり無事にお米が収穫できたとき神様に感謝をするため、喜びの秋祭りをしたりしたのだと思う。
そう考えると、いまの時代は秋以降にお米を食べられるかどうかという死活問題に関わる心配はなくなった。
でも、その反面に、いつもお米を食べられるという幸せを感じることもなくなったのだと思う。
食べるもがが溢れ、いつでもどこでも食べられるようになった現代。
食べられることがあたりまえになりすぎて、昔の人々が大切にしていたことを今は見失っているのかもしれません。
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