みなさん、こんにちは。
心理カウンセリング空の関口です。
いきなりですが、みなさんに質問です。
いま、あなたは「幸せ」ですか?
2018年3月14日、国連の関連機関より「世界幸福度報告書2018」が公開されました。幸福度調査の結果、日本は156カ国中54位でした。
ところで、あなたにとって「幸せ」とはなんですか?
1人ひとり性格も価値観が違うため、1人ひとりの「幸せの定義」は違いますよね。
私は「幸とは、幸せ感じ得る能力」だと考えています。
私がそう考えるようになったのは、東日本大震災後の炊きだしボランティア活動での出会いからでした。
今日は、「幸せ」をテーマにしてブログを書いていきます。
日本の幸福度ランキング
2018年3月14日、国連の関連機関より「世界幸福度報告書2018」が公開されました。
世界幸福度報告(英語: World Happiness Report)とは
国際連合の持続可能開発ソリューションネットワークが発行する、幸福度調査のレポートである。
この調査における幸福度とは、自分の幸福度が0から10のどの段階にあるかを答える世論調査によって得られた数値の平均値であり、主観的な値である(データはギャラップ社によるもの)。
報告においては、この幸福度を、GDPや健康寿命を含む6つの説明変数を用いて回帰分析し、各説明変数の寄与を求めて分析している。
引用元:ウィキペディア「世界幸福度報告」
2018年の幸福度調査結果では、日本は156カ国中54位でした。
世界幸福度報告書の「幸福度の定義」は以下の6基準です。
データでは150以上の国や地域を対象としている。
それぞれの国の幸福度は0~10の値からなる各個人の回答の数値の平均値である。説明変数は
- (1)人口あたりGDP(対数)
- (2)社会的支援(困ったときに頼ることができる親戚や友人がいるか)
- (3)健康寿命
- (4)人生の選択の自由度(人生で何をするかの選択の自由に満足しているか)
- (5)寛容さ(過去1か月の間にチャリティ等に寄付をしたことがあるか)
- (6)腐敗の認識(不満・悲しみ・怒りの少なさ、社会・政府に腐敗が蔓延していないか)
の6つであり、回帰分析で得られるこれらの説明変数の幸福度に対する寄与が与えられている。
引用元:ウィキペディア「世界幸福度報告」
上記6項目を幸福度の基準としヒヤリング調査をした結果、日本は156カ国中54位となりました。
ちなみに、6項目を幸福度の基準としたとき、あなたはいま「幸福」だと答えられますか?
私の答えは、上記6項目で「人の幸福度は図れない」です。
なぜならば「幸とは、幸せを感じ得る能力」と考えているからです。
私がそう考えるようになったのは、7年前の東日本大震災後の炊きだしボランティア活動での出会いからでした。
被災地の女子高生に教えてもらった「本当の幸せ」
今から7年前の3.11大震災のとき、私は有機農業に関わりながら「うつ病」からの心の回復を目指していました。
当時の私は心の奥底で「どうして自分はうつになったのか?」という後悔や「これから先も自分はうつになるのではないか?」という不安を抱えながら、私は「不幸」な人生を送っていました。
そのとき、東日本大震災が発生しました。
そして、2011年5月に有機農家の仲間達と被災地で炊きだしボランティアに行くことになり、私もボランティアメンバーとして参加しました。
私たちの炊きだしボランティア活動は、延べ4日間4カ所で行い、炊き出しで提供したメニューは以下の5品目。
- お稲荷さん
- 有機野菜たっぷりうどん
- ウインナー2本
- ポテトサラダ
- 味付け卵
炊きだしボランティア活動最終日の4日目、私達は小高い丘の上にある女子高校で炊き出しを行うことになりました。
2011年5月の時点で学校は始まっていましたが、丘の下の街は全て津波で破壊されており、その学校の体育館が避難所となっていました。
炊き出しは、体育館に避難されている方と学校の周りで不自由な暮らしを余儀なくされている方々にむけて、約100食のお昼ご飯を提供することになりました。
活動の前日、炊きだしをする場所、避難所の方や近隣の方々への提供方法などの打ち合わせを校長先生と行いました。
その打ち合わせの最後に校長先生から「今回の炊き出しは体育館に避難しているの方や学校の近隣の方に提供するものであって、我が校の生徒には一切提供をしないでください」とお願いされました。
校長先生の言葉を聞いたとき、私はなんと厳しい先生なのだろうと感じました。
翌朝、学校の正門の前で炊きだし活動を開始しました。
その光景を見て学校に通学する女子高校生達は「食べたい~」・「ちょ~うまそう~」と「あの日以来、ウインナー食べていないね」などうらやむ声が聞こえてきましたが、誰ひとり「食べさせてください」とは言ってきませんでした。
それからお昼となり、まずは体育館の被災者の方、次に学校の近隣の方々向けてお昼ご飯の提供を開始。予定していた100食はあっと言う間になくなりました。
最後の炊きだしボランティア活動が無事に終わりホッとしているとき、あの厳しい校長先生が私達のところへやってきました。
私は感謝のお礼を言うのかな~と心の中で思っていましたが、その校長先生は
「もし、食材に余りがあるようでしたら、我が校の生徒達にも食べさせていただけないでしょうか?。ここに通う生徒には、避難所に避難されている方とは違い、帰る家はあるのですが、それでも、被災者であることには何も変わりないのです。どうかお願いできないでしょうか」
と私たちに頭を下げました。
私は、この校長先生の言葉を聞いたときに、事前打ち合わせの時の厳しさは、非常時の規律を守るための厳しさであり、本当は生徒想いの優しい方なのだと心から感じました。
私達は、その高校が最後の活動場所で食材も若干残りがあったことから、校長先生のお願いを快く受け、残りの食材すべてを使い切り食事を作りました。
その一方で校長先生は、このことを校内放送で伝えるとパニックになるということで、近くに通りかかった高校生に「数に限りはあるがあたたかいうどんを食べられるぞ。君たち口コミでそのことをみんなに知らせてきなさい」と伝えていました。
それからすぐに、女子高校生達が続々と来て、
「おいしい~」
「あたたかいものがうれしい~」
「ウインナーあの時以来だね」
「あれ以来、こういう普通のものが食べられていなかったから、すごく嬉しい」
など、普通のうどんとお稲荷さんやウインナーをとっても幸せそうに食べていました。なかには、泣きながら食べている高校生もいました。
幸せそうに食べている高校生の光景を見たとき、私は人間にとっての「本当の幸せとはなにか?」とフッと思いました。
2011年5月の時点で、東京は普通の生活に戻っていました。
もし、東京の高校生達が「普通のうどん」や「普通のウインナー」を食べても、ここまで幸せそうに食べることはできないだろう。
どうして、被災地の高校生は心から幸せそうに食べられるのだろうか?と考えました。
そして、すぐにその答えがわかりました。
被災地の高校生達は「普通の生活」を一度失ったから
きっと、震災前であれば「うどん」や「ウインナー」を被災地の高校生達も普通に食べていたと思います。
しかし、震災で大変な経験をし、普通が普通ではないことを知ったから、「あたたかいうどん」や「ウインナー」を食べられることに、心から幸せを感じられるのではないだろうか?
もしそうだとしたら、普通のものを普通にしか食べられない人と、普通のものを心から幸せを感じて食べられる人とでは、どちらが、人として本当に幸せなのだろうか?と考えるようになりました。
幸せとは、幸せを感じ得る能力
うつ病を患う前の私は「成功して、幸せな人生を送りたい」と思っていました。「成功と幸せ」を得る為に、日々頑張っていました。
「もっと成功したい、もっと幸せになりたい」という思いは、ひとつのモチベーションになります。
しかし、「自分にとっての成功とは?自分にとっての幸せとは?」をしっかりと定義できていなかったから、日々ゴール無き競争をしている感じで、ある日突然ポキリと心が折れてしまい、それから私は「失敗と不幸な人生」という日々を過ごしていました。
そんな悩みを抱えながら炊きだしボランティア活動に参加し、うどんとウインナーを幸せそうに食べている高校生を見たとき、「私は不幸だ」という私の考え方がそもそも間違いであり、「幸せ」とは「幸せを感じ得る能力」であることに気づかされました。
例えば、あなたの目の前にひとつの「おむすび」があります。
「おむすび」を見たときに、「ただのおむすび」と見るか、それとも「美味しそうなおむすび」と見るかで感じ得られるものは違います。
後者の見方をした方が、日々「幸せ」を感じ得るのではないでしょうか。
しかし、飽食の現代社会において「おむすび」を見ても、「美味しそうなおむすび」とは見られないものです。
きっと、大震災等で「ご飯」を食べることができなくなったとき、はじめて「美味しそうな、おむすび」として見られるようになるのかもしれません。
でも、1度あたりまえを失ってから、そのことに気づいたのでは遅すぎます。
日々の生活の中でも、今日も「ご飯」を食べられることに「幸せ」を感じ得ることが、本当の幸せなのではないでしょうか。
何不自由なく生活ができる日本は、もっと「幸せ」になることではなく、今が「幸せである」ことに気づく能力を育てる必要があるのではないでしょうか。
例えば、今日食べる1杯のお茶碗には、約3000粒のお米が入っています。
秋に3000粒のお米を食べるには、春に3本の苗を田んぼに植え、それから約6ヶ月かけて稲を育て上げる必要があります。
今日食べる1杯のお茶碗の中には、どこかの場所で誰かの手で6ヶ月かけて育ってきたお米がつまっています。
ただ何も考えずにご飯を食べるよりも、このご飯はどこで育ったのだろう?どんな人が育ててくれたのだろう?と、その過程に想いを馳せることで、自然と感謝の気持ちを感じられます。
そして、その感謝の気持ちを込めながら「いただきます」と言うことで、ただの普通のご飯でも「幸せ」を感じ得ることができるもの。
そうやって、普通の物事に想いを馳せることが「幸せ」を感じ得る能力だと、私は思います。
まとめ
「幸せになるために・・・」というキャッチフレーズをよく見聞きします。
そして、「幸せになるために・・・」という言葉を聞くと、まるで「今が幸せではない」ように感じてしまい、「もっと幸せになりたい」と誰もが思ってしまいます。
しかし、「幸せになりたい」と誰もが思いますが、「どんな状態が幸せなのか?」を答えられる人は少ないのではないでしょうか。
1人ひとり性格も価値観も違うため、1人ひとりの「幸せの定義」は異なります。
あなたが「幸せ」だと心から思えたら、それが「幸せ」なのです。
だからこそ、「いつか幸せに」になるのではなく、何気ない日常の中で「幸せ」を感じ得る能力を育てていきましょう。
ここまで、お読みいただきありがとうございました。
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